
速水健朗(はやみず・けんろう)
1973年生まれ。ライター、編集者。東海大学卒業。1990年代以降の文化・社会現象を主な対象に評論活動を行う。著書に『タイアップの歌謡史』(洋泉社)、『自分探しが止まらない』(ソフトバンククリエイティブ)、『ケータイ小説的。 ~“再ヤンキー化”時代の少女たち』(原書房)、『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)、『都市と消費とディズニーの夢 ~ショッピングモータライゼーションの時代』(角川oneテーマ21)、『1995年』(ちくま新書)、『フード左翼とフード右翼 ~食で分断される日本人』(朝日新書)、『東京β ~更新され続ける都市の物語』(筑摩書房)、『東京どこに住む? ~住所格差と人生格差』(朝日新書)、『1990年代論』(共著 河出ブックス)など。
――(平成史編集室・志摩和生)速水さんはいわゆる団塊ジュニア世代ですね。
速水 団塊ジュニア世代で一番層の厚い1973年生まれです。高校受験の模擬試験の日に昭和天皇の崩御がありました。高校に行こうとしている頃に平成が始まった。まだ社会には参加していないけれど、平成を初めから観察者として記憶している世代ですね。
――速水さんには『1995年』という著書があります。元号で言えば平成7年。それは、この年が転機だと考えたからでしょうか。
速水 1995年は、神戸の震災があって、オウムの地下鉄サリン事件があった。この二つが大事件だったので、転機だとされやすい年ですね。もちろん、この二つの出来事は日本社会の変化のポイントだったとは思いますが、私自身は、そこには重きを置かない95年論を試みたんです。時代というのは、ある瞬間に動くというものではないだろう、と。転機に力点を置きすぎると、「なんとかの以前・以後」みたいなものの見方になる。それって本当かな、と思うんですね。
でも、今から振り返って時代の変化があったのは確かで、僕はそれは、89年から95年くらいの間に起こったと思っています。今日はその話をしようと思います。
――まさに平成の最初の6、7年ですね。
速水 この時期に登場した三つの重要なものがあります。「TSUTAYA」と「ドリカム」と「東京ウォーカー」。順に説明していきましょう。
一つ目は蔦屋書店、今のカルチュア・コンビニエンス・クラブが運営するTSUTAYAですね。
住宅の郊外化と、それに伴う商圏の郊外化は60、70年代からありましたが、文化はいつ郊外化したのかといえば改元前後の頃で、TSUTAYAが大きな役割を果たしています。レンタルビデオ普及の原因としてよく言われるように、天皇崩御後にテレビが自粛して、人々は見るものがなくなってレンタルビデオに走った、と。それは事実なのか都市伝説なのかわからないですけど、実際、TSUTAYAの普及が、まさに90年前後くらいからです。
僕自身の経験でも、その頃は新潟の郊外に住んでいたんですけど、日曜日に家族で車でファミリーレストランに行き、ご飯を食べて、帰りにTSUTAYAに寄って、映画のビデオを1週間レンタルで借りてくる。レンタルビデオ屋は少し前から存在していましたが、どちらかというと都市型でした。郊外で、車で、TSUTAYAからビデオを借りてくる、というのは、その頃に起こったライフスタイルの変化でした。
TSUTAYAだけでなく、HMVやタワーレコードなどの外資系レコード屋が全国的に増えていくのもこの時期です。それまでは、僕らはレコード、CDは、街のレコード屋で買っていました。東京にはもちろん外資系の大型ストアがあったんだけど、地方にはほぼなかった。それが全国チェーン化されて急速に増えたのが92、3年ごろですね。
これはプラットフォームの変化です。そして、ものを買う場所が変われば、コンテンツの革命が起こる。90年代はミリオンセラーが連発された時期ですが、それもここから始まる。90年代の郊外化といえば、三浦展さんの「ファスト風土化」論が有名ですが、その郊外のいちばん極端な変化は、TSUTAYAの発展と共に始まっているんですね。
このようにプラットフォームが変化したとき、登場したのがドリームズ・カム・トゥルー、「ドリカム」でした。
この時代に、「J-POP」という言葉もできる。「歌謡曲」という言葉に対して、「歌謡曲」と違う棚を店に作るために、J-WAVEと外資系レコード屋さんが90年前後に作ったと言われます。
そのJ-POPから出てきて、90年代前半にいちばんブレークしたのがドリカムです。僕らの世代――いわゆる団塊ジュニア世代――は、ドリカムがホストを務めていたフジの深夜番組「うれしたのし大好き」をみんな見ていた。とくに恋愛観に関して最も影響力があった。ドリカムって、9割9分、恋愛の曲なんです。
ドリカムが恋愛をどう変えたか。それは、80年代と対比して考えるとわかりやすいでしょう。
デートや恋愛の商品化といえば、80年代のユーミンに象徴されます。ユーミンはそれこそ自分で言っています――クリスマスは家族のものだったのに、私の「恋人がサンタクロース」という曲によって、それはカップルのものになった、と。恋愛資本主義はユーミンが作った、と評されることは多かったですが、今は彼女自身が自認するようになっている。いつからクリスマスがカップルのものになったのか。堀井憲一郎という人が調べて、83年の「アンアン」に、クリスマスを彼女と過ごすという、赤坂プリンスとのタイアップ記事が載ったのを発見した。いずれにせよ、その頃です。
恋愛を商品化する、ユーミンのそのマジックのキーワードは「洗練」です。恋愛をイメージの上で洗練させ、憧れの対象にする。いろんな光景の中に恋愛を消費コードに変えて変換するようなマジックです。オープンカーでデートする、みたいな歌を作り続けていた。そこには、横浜の港の光景が見えていたし、ちょっと気取ったレストランに入って、クリームソーダ越しに見える光景、みたいな。それは背伸びした、ある意味、しゃらくさい、都市型の恋愛です。
それに対して、ドリカム――結成は88年ですが定着するのは90年以降――は、都市じゃなくても成立する光景をずっと描いていたんです。
それこそTSUTAYAでビデオを借りてくる、みたいなシチュエーションも歌っている。「ゴー・フォー・イット」という曲で、あなたが勧める(レオス・)カラックス監督映画のビデオを借りて一緒に見る、みたいな。カラックスは90年代前半のサブカルチャーのアイテムで、背伸びではあるけれども、そういうカルチャーが誰でもどこでも受容できるというのが民主化の象徴と言えます。
ユーミンの歌詞のようなドライブデートは、オープンカーが登場するなど、まだ車が特権的なものだった時代のものとして描かれています。実際には、その頃は自動車の普及度はそれほどでもなかった。自動車普及率が急増するのはそのあとなんです。
ドリカムの吉田美和は一切、車種を書かない。特別なシチュエーションではないんですね。
ドリカムの中で歌われている、ブレーキランプを5回点滅させるのは「愛してる」サイン、みたいなのは、僕らの世代は誰でも知っている合図だった。吉田美和は、日常の中の恋愛を歌にする天才でした。
その恋愛の民主化時代にすごく即したアイテムが「東京ウォーカー」(1990年創刊)でした。「東京ウォーカー」――その後、各地の「地方ウォーカー」が出ます――は、それまでのカタログ雑誌やデートマニュアル雑誌とどこが違ったか、と言えば、これまでの雑誌が、事前にいろいろ勉強して彼女を攻略するためのマニュアルだとすれば、「東京ウォーカー」は、ただその通りになぞればいい、という書き方になっている。与えられたコースをなぞる。そこにはもう「洗練」は必要ない。
デートで財布を出すタイミングとかに関して、それまでは、いかに男がスマートに財布を出すかが問われたんですけど、東京ウォーカーはそういうことは言わないんですよ(笑)。非常に民主的で、割り勘でいい、という世界。たぶんそのあたりに分岐点があって、僕らは割り勘でデートするのが当たり前の世代になった。
そもそも、恋愛に見えを張ったり、ムダにお金をかけたりすることもしない。90年代前半は「ゴースト/ニューヨークの幻」とか「プリティ・ウーマン」とか、デートムービーの全盛期でもありました。当時の典型的なデートといえば、「東京ウォーカー」を見て、そこに載っているティラミス屋さんか何かに、ドリカムを聞きながらドライブして、帰りにTSUTAYAに寄ってデートムービーを借り、帰ってから一緒に見る、という。もう誰でも参加できる。お金もかからない。ある意味、ユーミン以前に戻った感じですが、民主化というより、ライフスタイル化と言った方がいいと思う。
ここまで、ちょっと理念化して、「頭でっかち」に語りましたが、これは僕らの世代の共通体験なんです。クラスのほとんどがドリカムにはまった。ドリカムの価値観を共有して、恋愛して、結婚までさせられる(笑)。ドリカムはすごく「幸せ」という言葉を多用するんですね。そして、恋愛のゴールは結婚だと自然に仮定されている。ユーミンの曲の世界では、恋人と結婚相手は別かもしれませんが、こちらは直結している。その分、地に足がついているとも言えます。
民主的な恋。幸せ。結婚。僕らの世代は、結婚式でみんなドリカムの曲をかけました。
今は、結婚がゴールなんて言ったら怒られちゃう時代だから。「ゼクシィ」のCMでも、「結婚しなくても幸せになれる時代だけど、私はあえてあなたと結婚したい」みたいなことを言わなければならなくなる。僕らの世代は、そういう「枕詞(まくらことば)」抜きで、結婚に幸せを求めていた。
僕らの世代――団塊ジュニア世代――のあと、どんどん非婚化が進みます。急速に変わるんですね。僕らの世代は、世代で価値観を共有できた世代、みな同じ光景を見ていた最後の世代かもしれません。僕らは、その光景を、ドリカムという窓を通して見ていたんです。
(つづく)*毎週月曜日更新
写真:毎日新聞出版・髙橋勝視
