磯田道史(いそだ・みちふみ)
昭和45(1970)年、岡山県生まれ。歴史家。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(史学)。専攻は日本近世社会経済史、歴史社会学、日本古文書学。現在、国際日本文化研究センター准教授。『武士の家計簿』で新潮ドキュメント賞、『天災から日本史を読みなおす』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。放送での歴史解説でNHK地域放送文化賞を受賞。他に『殿様の通信簿』『日本人の叡智』『龍馬史』『歴史の愉しみ方』『無私の日本人』『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』など。毎日新聞書評委員も務める。
――(平成史編集室 志摩和生)磯田さんのような歴史家は「平成史」をどうお考えでしょう。そもそも、歴史を元号で区切ることに意味を認めますか?
磯田 元号で区切ることの意味は、あるものもあるし、ないものもあると思うんですよ。比較的、意味がないのは、世界史的な流れや、社会史で言う「長期の波」にかかわるものですね。例えば、人口や、学問の動向だとか、文化的なことだとか。文化でも、学術にはちょっとかかわるかもしれないけれど、サイエンスには、さほど影響ないでしょう。
一方、元号の代替わりが意外に影響するのが、まずは政治。あと、経済にも影響があるんじゃないかと思う。平成になったのが1989年ですが、まさにその頃からバブルがはじけていったりしますね。
元号と共に変わったもの。私が意外だなと思ったのが、女の子の名前ですね。昭和までは、子供の「子」が女の子の名前によくついていたんですけど、平成になると、「子」があまりつけられなくなる。これは、男性性や女性性を強く示すようなものが、平成になって消えていったことを意味している、と。
こうしたことがなぜ起きるのか。やはり天皇陛下は、いらっしゃるだけで影響が強いんじゃないか、私たちが思っている以上に。
例えば、毎日新聞の政治記者だった岩見隆夫さんが『陛下の御質問』という本を書いています。国務大臣が天皇の質問に答える「内奏(ないそう)」という制度について書かれた本ですね。国務大臣が天皇に説明しに行くわけですけれど、その内容は公表してはならないことになっています。
この内奏は、政治や政局にまったくかかわっていないように思えますが、実際には、政策に対して、陛下が感想を漏らされる機会になっています。この政策はこういう感じのことが起こると思うがどうか、と、「か」の字がついて疑問形になっていればいいわけですから。聞かれた国務大臣は、なるほど陛下はここに興味をお持ちなのか、あるいは、こういう危惧や疑念をお持ちなのか、とわかる。
少なくとも昭和の時代では、この内奏という制度の非常に強い影響があらわれていたと思います。靖国神社参拝問題でも、昭和天皇実録なんかの行間を読み取るにつけ、昭和天皇の意思が、やっぱり参拝をあきらめていく過程に影響しているように思うんですよね。
平成でも、基本、内奏制度はあるわけです。
代替わりすると、気分的な変化もありますよね。これからはこの世代が前面に立っていく、という雰囲気がつくられる。
昭和天皇がいらっしゃった時っていうのは、現役の政治家たちも、復員軍人の人がわりに残っていた。竹下(登)さんとか。中曽根(康弘)さんもまだ現役の議員でしたし、田中角栄さんもいた。とにかく、戦後初期の国政選挙に焼け跡から出てきた議員たちが残っていました。それで、権威主義というか、お仲間グループを非常に大事にして、天皇がおっしゃられたとか、上司が言った、先輩が言ったとかの縦型社会の規範を、ある程度、守っていました。それに、インターネットの発達がないので、組織の中だけに情報があった。内部集団というのかな、それがあった時代だと思うんですよね。
私は中曽根康弘さんの『自省録』という回想録で聞き手になりました。その時に15回、中曽根さんにお会いして、いまの天皇と昭和天皇のちがいをうかがいました。昭和天皇は、戦後になっても、「みなのもの」とか言うんだそうですよ。「食事へまいろう」とか。文武百官(ぶんぶひゃっかん)をひきつれている感じがある。非常に威厳があったそうですよ。君主だったわけですから、戦後になっても、一朝一夕で変わるはずはない。
それに対して、いまの天皇は、一般の国民に敬語を使われたりする。接し方が、かつて現人神(あらひとがみ)だった方とはちがうんですよね。私もお会いしたことがありますが、「磯田さん〜なさいませんか」というご丁寧な感じで恐縮いたしました。
――小林よしのりさんによれば、天皇陛下には、自分の代はこういう世の中にしたい、という思いがあるのだ、ということですが。
磯田 それはありますね。
昭和天皇は無私に徹して、国民おのおのがみな仕事をがんばることで、日本という国を復興させ、経済力にしろ、科学にしろ、他国と比べて恥ずかしくない国にしよう、というお気持ちが強かったですよね。
いまの天皇陛下も、それはおんなじだとは思うんですけど、他国にいやな印象を与えない、「たたずまいのいい日本」といったものを目指しているような気がしますね。周りの国々からいやがられることをしない日本であってほしい、というお考えと拝します。世界中の、日のあたらないところにも、ちゃんと手を差し伸べられるような日本。そんなお気持ちを強くもっていらっしゃるように思いますね。
――日のあたらないところに、自分が行くことで日をあてよう、と。
磯田 そういうお気持ちは非常に強いと思います。だから、「列国に伍(ご)して」みたいなところがまだ昭和天皇の頃はありましたけど、いまは成熟国家としての役割を果たすべきだというのが今上陛下のお考えなのかなあ、と、史家としては想像します。
まあ、日本はたぶんそう歩んできたと思うんですよ。「がむしゃら性」がなくなっていきましたね。ぼくの親の世代、昭和の時代に比べると。「ゆとりからさとりへ」と電通の方なんかが言ったりしますけど。もうさとっちゃって、ある種の老成に近いような。日本も平成の終わりごろになってくると、そういう感じが見えてきました。
同じようなことは、明治から大正に変わったときもありました。当時の新聞や雑誌を読むと、上り坂をのぼった明治の大帝の時代から、わりにマイルドな、大正天皇の時代への変化を感じます。大正天皇がご病弱なこともみんなわかっていましたから。で、昭和に移り変わると、摂政の宮(昭和天皇)の、非常にきまじめな感じが出てくる。明治大帝のような豪傑風もない。昭和天皇は洋行もしたことがある天皇だから、世の中にけっこう国際的な雰囲気が出てきます。
明治から大正へ、大正から昭和へ、天皇が代わったことによる雰囲気の変わり方は、調べてみると想像以上に大きい。
――歴史家としては「平成史」をどうまとめるのがいいと思いますか。方法論として。
磯田 平成を縦軸で、つまり時間軸で区切って考える、というまとめ方が一つありますね。
まず、平成元年の1989年から、1995(平成7)年くらいまでが、ひとくくりできます。
1995年以前は、ウィンドウズ95が出る前ですから、それほどネット社会ではない。1995年がやはり本格的なネット社会への突入だろうと思う。
そこから2001(平成13)年の同時多発テロぐらいまで、とか。2000年代以降をどう区切るかはいろいろな考え方ができるでしょう。
例えば、東アジアとの関係も、2000年初頭くらいはそれほど悪くなかった。日韓にせよ、日中にせよ。大事な点は、中国や韓国の急激な成長に、日本人がまだおののいていないんですよ。
でも、これが2005(平成17)年とかになってくると、もう中国の(購買力平価ベースの)GDP(国内総生産)が日本を抜いて世界第2位になって、日本が3位に落ちた、と。これはやっぱり歴史の新しい段階だと私は思います。そうなってくると、以前には考えられないようなこと、例えば尖閣国有化とかが起こって、国際関係がどんどん悪化していく。
また、対外的にまだそれほど自信失っていない、1990年代に、最初の自民党から政権交代が起きますよね。93(平成5)年の細川政局で1回目が起きて、橋本龍太郎内閣が96(平成8)年に取り戻す。あのあたりの変化をどう考えるか。
あとは、2011(平成23)年の東日本大震災による大きな変化ですね。
まあだから、平成は、89(平成元)年から95(平成7)年まで、96(平成8)年から2011(平成23)年まで、そしてそれ以降、と、三つの時期に分けるのがいいかな。
――平成の前期・中期・後期ですね。
磯田 もう一つは、部門別で時代を見ていくやり方ですね。政治、経済、文化とか、それぞれの面で切っていく、という平成のまとめ方もあるでしょう。
――文化のところで、日本発のアニメやゲームが世界に広まったのは、平成の大きな現象だったと思うのですが、まとめ方が難しいと感じます。例えば、「アニメ」や「オタク」が国際語になったのはいつか、とか調べてはいるんですが、なかなか全体像がつかめない。
磯田 それはやっぱりネットの影響が大きいですよね。ぼくが学生だった1980年代の終わりごろも、外国人は日本のアニメに注目していたけれど、それはアニメが輸出されていたからです。そういうアニメ番組の輸出って問題と、誰かを介しての輸出ではなくて外国人が直接取りに来るのとは、ちがう。後者のような事態は、やっぱり1995年以降ではないかと思います。まあ専門家にはまた別の考えはあるかもしれませんが。
ネット社会の到来と軌を一にするのが、アキバ(東京・秋葉原)の変化ですね。いまはアキバに外国人客がよく来ますが、もともとは電気街だったわけで、アマチュア無線とか、ラジオ技術とか、そういうのが好きな男の子たちの街だった。
――ハードウエアの街ですね。
磯田 それが、いまはソフト(ウエア)の街になりました。美少女マンガみたいなものの。少女系のコンテンツを男の子が見に行くような、コンテンツの街になりました。アキバは日本の縮図。日本のソフトウエア化、オタク化、非婚化、国際化の過程を象徴しています。
――それはやっぱり、最初のほうでおっしゃった、男性性とか女性性とかのジェンダーの変化がからんでいるでしょうね。わりに重要だったのが1986(昭和61)年実施の男女雇用機会均等法ではないでしょうか。ちょうど私が就職した年だったからよく覚えています。
磯田 そうですね、そのあたりから、「出産もしなきゃいけない、結婚もしなきゃいけない」みたいな女性のくびきが、だんだん外れてきたんでしょうね。女性から見ると。
――女性がより活躍できるようになったわけですけど、それについていけない男性もいた。
磯田 それに関連して、平成で大きな流れになった一つは、みんなが結婚する社会ではなくなったということですね。95年ぐらい頃からかなあ、はっきりしてきているのが。男性の未婚率が、急激に上がっているんですよね。男性の未婚率が上がるってことは、男性が現実の女性と付き合わない、ってこと。
まず、女性と付き合わなくても暮らしていけるインフラが生まれている。コインランドリーからコンビニまで。
あと、現実の女性という点で言うと、いわゆる「会いにいけるアイドル」、AKBだとかも、結婚しない大量の男の人がいるから成り立つビジネスモデルですよね。その前に「ニジおた」ってのがあった。二次元の女性、漫画で描かれている女のほうが、現実の女の子より「萌(も)えて」しまう。この「萌え」という言葉も平成ですね。
いっぽう、成人向けの映像は、美容整形をしたすごい美女たちも登場する。ああいうものを見て、そっちのほうにはまっちゃう人たちも多くなっているはずです。むかしだったら、職場で女性と知り合ったりしたけど、いまは映像だとか情報化で目が肥えてきちゃっている。逆もあると思いますよ。女の子も、絶対、話が面白い男の子じゃないとダメだ、とか。男女とも情報化が進んで、現実の男女では、「え、こんなのと結婚するの」と男女ともに相手に厳しくなって、結婚が成立していかない。経済的にも苦しい。で、未婚率のカーブは、急上昇を描いている。
これは大きな変化で、実はそれまで――江戸時代初めの1650年くらいから1990年くらいまでは、「皆婚(かいこん)社会」だったわけですよ。みんなが結婚できた。
1650年以前の、関ケ原の合戦やっていた頃や、もっと前の室町時代は、結婚できるのはちゃんと田んぼを持っていたりする人たちだけで、それ以外の、住み込みの奉公人たちは所帯をもてなかった。半奴隷状態ですから。
それが江戸時代で安定してきて「皆婚」になったんだけれど、そのシステムが350年くらいで壊れたんじゃないかと思うんですね。
みんなが結婚できて、みんなが所帯をもって、みんなが墓をもって、みんなが先祖をもつ――これがいま崩壊しつつあるわけですよ。まず結婚しない。単体になってくる。だから墓もいらない。散骨してほしい、となる。先祖として永久に残る、という文化が消えつつある。
むかし、ぼくのおばあさんに、「ぼくは結婚するかどうかわからない」と言ったら、おばあさんはすごく悲しい顔をしたのを覚えています。結婚できなかったら、じいちゃんばあちゃんのお墓も無縁さん――無縁仏になるかもしれんよ、と言ったら、もう地獄にでも落とされたような顔をしていた。死んだ後のことはどうでもいい、とは思わないんですよ。いま生きていたら百数十歳になっている世代ですが。
――墓を守ってほしい、と。
磯田 「おばあちゃん、お墓まいりに行くからね、お墓を守るからね」とか言うと、お年玉が多くなったり(笑)、少しは貯金を残しておいて地所でも残しておこうか、みたいな、そういう人たちでしたよね。
だけど、われわれは、無縁仏になるとかならないとかのレベルで生きてないですよね。いい人がいたら結婚すればいい、くらいのところでしょう。
ただ、親の面倒は見なきゃな、というのは崩れてない。これが、社会保障が完全崩壊しないところだと思うんですけど。
――前にインタビューした速水健朗さんによると、90年代前半のドリカム全盛のころは、恋愛が結婚に直結する文化があった。団塊ジュニアの世代ですが。それが、それ以降は壊れていく。
磯田 ぼくなんか、恋愛が結婚に直結するレトロな考えで来ましたからね。36まで独身で、初めて付き合った人と、いきなり結婚するわけですから。昔ながらですよ。まったく昔ながら。
――まあ、地に足がついている感じですよね。
磯田 モテなかっただけです。だけど、「ぼくは恋愛イコール結婚です」といったら、「ええっ!」と違和感ありありで驚かれ始めたのは、たしかに95年くらいからかなあ。明らかに違ってきています。
――90年代後半は、出版や新聞の部数も落ち始める。いろいろ大変化があった時期でした。
磯田 あと、携帯電話の普及ですよね。ポケベル加入数が1000万を超えたのが96年か。
――だいたい2000年よりちょっと後ですね、みんな携帯をもつようになったのは。
磯田 ぼくが大学に通っていた90年ごろには、携帯電話は電話帳より大きな肩掛けでした。ぼくはいつ持ったかなあ。かなり後まで持っていないんです。まずみんな、ピッチ(PHS)から入ったんじゃないか。
――インターネットと結びついたiモードあたりで爆発的に広がる。
磯田 いずれにせよ、2000年代超えてから、携帯電話が恋愛ツールになっていくわけですよね。あれでお父さんとか家族とかに邪魔されずに電話できるようになったので、完全に個人に解体されていったわけですよ。
携帯は不倫の舞台にもなっていった。思えば、平成初年は不倫が今ほど非難されていなかった。いま不倫がすごく批判されるのは、きっと、全員が結婚できなくなった皆婚社会の崩壊が関係している。今や結婚はリア充(現実生活充実者)だけのぜいたく品になった。「結婚できているのに、さらに不倫までしやがって」、みたいな空気もあるでしょう。
――特権を享受しすぎだろう、と。
磯田 そういう気持ちがあるんじゃないですか。リアルで充実している、リア充という言葉が言われるようになる。
――それは、逆に、リア充が少ないからでしょうね。
磯田 リア充が少ない。本当に少ない。
(つづく)*毎週月曜日更新
写真:毎日新聞出版・髙橋勝視