栗原裕一郎(くりはら・ゆういちろう)
昭和40(1965)年、神奈川県生まれ。評論家。東京大学理科Ⅰ類除籍。文芸や音楽など幅広く評論活動を行う。平成21(2009)年、『<盗作>の文学史』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)受賞。著書に『禁煙ファシズムと戦う』(小谷野敦、斎藤貴男と共著)、『村上春樹を音楽で読み解く』(監修、共著)、『本当の経済の話をしよう』(若田部昌澄と共著)、『石原慎太郎を読んでみた』(豊崎由美と共著)、『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』(北田暁大、後藤和智と共著)など。
(承前)
――(平成史編集室・志摩和生)左翼の課題を、左翼よりも先に安倍政権が解決した、と。
栗原 先日、毎日新聞が安倍政権の外交はリベラルだと書いて話題になりましたが(「安倍政治への注文 リベラル外交継続を」)、実は経済政策もリベラルなんですよね。金融緩和で景気を良くして、財政出動で活性化と安定化を図るというのは、理念的には左派の経済政策です。アメリカの(バーニー・)サンダースとか、イギリスの(ジェレミー・)コービン(労働党党首)といった左派も基本的には財源の確保のために金融緩和を主張していて、財政政策は政府支出による反緊縮を主張しています。そもそもクルーグマンがリベラルですからね。
なのに日本のリベラルは、アベノミクスを頭ごなしに否定してきた。アベノミクスは不十分だという批判はリフレ派からもあるし、消費税増税で雲行きも怪しいですが、いいとこ取りをしてより良い経済政策を打ち出せばいいのに、それはしないでともかく全部否定しようとする。経済左派の政策を、リベラルが全否定するというねじれた構図に、日本はなってしまったわけですね。
――そこが一つのねじれですね。
栗原 枝野幸男さんが、民進党の代表選のときのインタビューで、アベノミクスは一部評価する、政権をとっても金融緩和は当然継続する、とバズフィードのインタビューで言っていたんです。なのに、立憲民主党になったら、金融緩和という話は完全にどこかへ消えちゃったんですよね。で、アベノミクスはダメだった、民主党の政策が正しかった、と言い始めて。何か党内で政治的な駆け引きがあったのかもしれませんが。
――僕はたまたま、民主党政権時代、首相になる前の副総理だった菅直人さんに、勝間和代さんがリフレ政策をプレゼンするのを取材しています。エコノミストを招いて公開で話を聞く会があって。2009年のことですが。1時間くらい、勝間さんが腕をぐるぐる回して「お金を刷ればいいんですよ」と言うのに対し、菅さんは首を振り続けた。
栗原 リフレ派の人たちはかなり政策の売り込みをしていたんですよね。
――あそこで菅さんが取り入れていたら、「カンノミクス」になったわけですね。だから問題は、なぜ民主党がそれを受け入れずに、なぜ安倍さんがそれを受け入れたのか、ということですね。
栗原 なぜ安倍さんが急にマクロ経済に目覚めたのか、というのは謎なんですけど、いずれにせよ、結局、リフレ派の人たちが政策を売り込みに行って、採用したのが安倍さんだけだった、という話です。
――ということですよね。
栗原 『現代ニッポン論壇事情』にも書きましたが、北田暁大さんも、おととし(2015年)、リベラル懇話会というのを組織して、当時の民主党に政策パッケージの提案をしていたんですけれど、完全に無視されましたね。稲葉(振一郎)さんや、岸(政彦)さんもメンバーに入っていました。結局、一顧だにされず、民進党は緊縮路線を継続しました。
――大蔵省出身の藤井裕久さん(元財務相、元民主党最高顧問)とかのせい?
栗原 リベラル懇話会が意見交換していたのは岡田克也代表をはじめとする党幹部でしたが、まあ、岡田さんに話が通じるとは思えませんでしたよね(笑)。
民主党‐民進党には、金子洋一さんとか、馬淵澄夫さんとか、リフレ派の人も何人かいましたが傍流でしたね。
――リフレ議連みたいなのがありましたよね。「デフレ脱却国民会議」か。議員会館での会合を取材したことがあります。たしか松原仁さんとか、小沢鋭仁さんとか、民主党のけっこう大物が来ていた。
栗原 民主党から離れた人ばかりですね。
――みんな、どっかにいっちゃいましたね。
栗原 日本のリベラルが、欧米のリベラルのような経済左派的政策を主張できないのは、安倍政権に対するアンチ意識が先走っていることがおそらく大きいですよね。非常にくだらない話ですけど、「アベノミクス」という名前がよくなかった(笑)。
それと、論壇の問題もあると思うんですよ。マルクス経済学から新古典派経済学へという転換に、論壇がフォローアップをしそこねてしまった。その結果、イデオローグであるリベラル文化人、朝日岩波文化人は、反経済成長、脱経済成長を唱える人ばかりになってしまった。
最近でこそ「反緊縮」みたいなことを言うリベラル文化人も出てきましたが、断言しますがこれは完全にブレイディみかこさんの影響です。ブレイディみかこが登場しなかったら、リベラルな人たちの口から「反緊縮」なんて言葉が出ることはなかったですね、おそらく。
――……ブレイディさん、ってだれでしたっけ?
栗原 このあいだ『子どもたちの階級闘争』で新潮ドキュメント賞を受賞したじゃないですか。イギリス在住の保育士で、欧米の政治レポートを書いている。「地べた」からの政治レポートというキャッチフレーズで……。
――ああ、わかりました。ブレイディさんは、そんなに影響力があるんですか。
栗原 いまやすごい売れっ子ですよ。この2年くらいで急激に頭角を現してきた人で、結婚を機に20年くらい前にイギリスに移住して保育士として働いている。イギリスの緊縮政策で、保育園が日に日にボロボロになっていくのを目の当たりにして、もともとは音楽ライターだったみたいですが、だんだん政治のほうに意識が向かっていって政治レポートを書くようになった。Yahoo!ニュースで、緊縮政策に対するカウンターとして、サンダースやコービンやポデモス(スペインの左翼政党)などが登場してきた状況のレポートを書いていたんですが、それが注目されて『ヨーロッパ・コーリング』という本になって岩波書店から出て、その後は破竹の勢いです。
ブレイディさんは一貫して「地べた」からの「反緊縮」を訴えているんですが、日本のリベラル左派の人たちは、最初は「反緊縮」をまったく読み取れなかった、あるいは読み取ろうとしなかった。アンダークラスからの「地べた」の実感で欧米の政治を批判しているくらいの認識で、「反緊縮」のほうには当初、無反応でした。でも「地べた」と「反緊縮」が2本柱であって、緊縮政策がイギリスをここまでガタガタにしてしまったのだ、と。ブレグジットもそうだ、と。ようやくリベラルでこういうことを言う人が出てきたんだなあ、と思ったんですけど、日本のリベラルは最初まったく理解していなかったし、いまだに理解を拒んでいる人もいると思います。
ブレイディさんが際立ったのは、その主張が当たり前だったからですね。「地べた」という部分でリベラルの受けは良かったし、「反緊縮」という主張についてリフレ派はようやく出てきたかと思った。対立しているリベラルとリフレ派の双方から評価されるリベラル論客という、日本の言論状況では希有(けう)な、でも世界的に見れば普通の立ち位置を獲得したわけです。
――不思議なことですよね。なぜ日本のリベラルは、金融緩和というリベラルな政策を避け続けたのか。
栗原 なんなのでしょうね。やはりマルクス主義の呪縛が大きいんじゃないでしょうか。資本主義も経済成長も市場経済も基本的に嫌いですよね。
柄谷さんとかはいまだにカリスマ的人気がありますけれど、たとえば比較的近著の『世界史の構造』を読んでも、世界観のもとにあるのはやっぱりマルクス経済学です。柄谷さんは自由貿易自体を認めていないんですよね。経済学の基本理論に比較優位説というのがありますが、柄谷さんはこれを頭から否定している。そうすると主流派経済学はもう全否定しているようなものです。自由貿易とは帝国による周辺国からの搾取であるという観念が強固にあって、それがぶれない。
――「資本主義の悪」みたいな話?
栗原 そうなんでしょうね。
水野和夫さんなんかもわりとそういう思想なんですよ。世界のフロンティアはもう尽きた。パイは減る一方である。だから縮小していく経済でなんとかしなければいけない、みたいな、おおざっぱにはそういうロジックです。で、水野さんは柄谷を参照していたりする。人文系リベラルの人たちはどういうわけかゼロサム思考に寄っていく傾向があるので、水野さんみたいな話は受けがいい。そのうえ柄谷の引用まであるとなれば、猫にマタタビみたいなものです(笑)。
経済はもはや成長できない、パイは一定であるかもしくは縮小していく、というのを前提にすると、トレードというのはパイの奪い合い、強者による弱者からの搾取という話になる。デフレで就職氷河期のときには、実際にパイが縮小していたわけですよね。リベラル文化人、人文思想文学あたりの人もそうですが、そこでパイを大きくするにはどうすればいいかという考えにはいかない。パイの縮小を前提として、その中で何が起こるかどうするかっていう考え方をする。だからたとえば、自分が正社員になると、別の誰かが一人就職にあぶれることになる、と書いたりする。実際にそういう文芸評論があったんですけど(笑)。
ゼロサム、あるいはマイナスサムが基本認識になっているとすれば、金融緩和や財政出動という発想にならない、理解できない、理解したくないというふうになるのは不思議ではない。
民主党‐民進党や、あるいは立憲民主党も、どこかの無駄を削ってどこかに回すみたいな政策ばかり主張しますよね。政策立案の前提がゼロサムになっている。
朝日新聞なんかも経済成長をものすごく嫌うじゃないですか。あれもゼロサム思考のバリエーションかなと思います。高度経済成長期の「くたばれGNP」は朝日の社是みたいなものですよね(笑)。
――経済成長なんて要らない、と
栗原 リフレ派以降というか、主流派経済学が人文系の分野に紹介されたことでいちばん大きな変化は、「経済成長は必要である」という認識が、一部にですが、出てきたことだと思うんですよね。まだ、特に文化芸術方面の人たちなんかには「経済成長なんて要らない、できない」という論調のほうが圧倒的に多いし人気もありますけど。
――なぜリベラル論壇にそういう話が広がっていかない? なぜ受け入れられないんでしょう。
栗原 不勉強なんじゃないですか?(笑) 不勉強でいたほうがむしろ仕事が回るというインセンティブもあると思うんですけどね。言論人といえども客商売ですから、ずーっとポストモダンやっていたり、経済成長否定論を打っていたほうが一定数いる固定客には喜ばれる、むしろそっちのほうがお座敷が多かったりする。
先ほどの『ゲンロン4』にしてもそうです。佐々木敦氏の巻頭言を見ても、2000年代以降の「文化左翼」のまとめということで、ワーキングプア、雇用労働問題から入っているのに、経済の話は広く見積もっても、ネグリ=ハートの『〈帝国〉』と柄谷行人のNAMしか出てこない。本編座談会の付録である年表に稲葉振一郎『経済学という教養』がちっちゃく載ってはいるけれど、議論にはまったくからんでこない。この選別はある意味では意思表明でもあると思うんですけどね。この号は「現代日本の批評」を特集したものですが、つまり経済学の問題は批評の問題ではないという無言の意思表明になっているという。
『ゲンロン4』の描く批評史は、まあ、東浩紀が主宰している雑誌なので当然、ニューアカ〜東浩紀を中心とする史観なんですが、2000年代以降というのはデモに代表される運動が活発になってくるので、批評と運動が分かちがたくなっていき、ニューアカを中心とする史観にブレが出てくる。
外山恒一が「人民の敵」という自身のウェブサイトで、この『ゲンロン』を読む対談をやっているんですが、これが面白いんですね。活動家の立場から『ゲンロン』の批評史を見て、これはちがうだろう、事実はこうじゃないか、この人物へのこの評価はおかしいのではないかという突っ込みを次々にしていく。外山の立場からは、東浩紀たちの描く批評史はすごくいびつに見えている。
でもたぶん、東サイドから見ると、外山の左翼史もすごくいびつだろうと思うんですよね。その齟齬(そご)がなかなか面白い。同じ事象をたどっているはずなのにぜんぜん歴史がちがうという。
とはいえ実際には、ニューアカ〜東浩紀を中心とする史観のほうがプレゼンスが強いし、文芸誌や思想誌などもその人脈に連なる人たちを好んで使うというのがずっと続いている。ニューアカはもう第3世代、第4世代くらいになっていると思いますが、ニューアカの呪縛が総括されないままでずっと来てしまっているわけですね。
――文芸誌や思想誌の話はともかく、もう少し広く論壇を見ると、一般紙では、たとえば浜矩子さんとかがアベノミクス批判をしていますね。
栗原 毎日新聞さんは浜さん大好きですよね(笑)。
――私が言いたいのは、新聞なんかで安倍批判の前面に出てくるのは、東さんとか、「ゲンロン」とかに書いている人たちではないでしょう、ということです。
栗原 内田樹氏とかですよね。
――高橋源一郎さんであるとか。柄谷さんも護憲とかの文脈では出てくるかもしれない。
栗原 反原発でも割とよく出ていた印象です。でも柄谷さんはもうちょっとマニアックなほうに露出が多いですよね。文芸誌とか、書評新聞とか。「週刊読書人」は柄谷シンパなのか、インタビューをよく載せていますね。
――そういう読者やメディアがあってもいいですけど、新聞などが公論を形成するメディアとして機能しているかどうかが問題だと思うんです。安倍政権を批判するにしても、それが有効な批判になっているかどうか、ということですね。これまでの話では、経済学がわかってないのが論壇の問題ということですが、それは、経済以外の批判は無効だということですか?
栗原 そんなことはないですよ。ただ、最初にお話ししたように、対立の構図の根にはアベノミクスに対する評価の差と無理解があって、それが一番大きいのではないかと考えているということです。その原因として、90年代以降に重要さを増してきたと思われる経済学に対する、リベラル文化人知識人たちの無理解や嫌悪があるんじゃないかという話ですよね。90年代以降、持ち上がってきていたものの潜伏していた人文学と経済学という問題が、アベノミクスという議題の登場で一気に表面化したというイメージを個人的には持っています。
安保法制や憲法、あるいは原発問題や基地問題とかそういった争点については議論がけっこうなされているし、イデオロギーが絡んでくるので難しい面もありますが、ともあれ議論はある。それに対してアベノミクスに関しては、基本的な理解の段階に非対称性があって、議論にすらならない状態がずっと続いている。
――カレル・ヴァン・ウォルフレンというオランダ人ジャーナリストが、日本を観察して、日本人の中の頭のいい人たちが、戦後、あまりにもマルクス主義で時間を空費した、それで論壇が機能しなかった、と90年代に言っていました。同じような事態がいまも続いているのか、と話を聞いて思いました。
栗原 若い人たちももちろん出てきていて、新しい展開もありますが、全体として見ると停滞している感じはありますよね。80年代に活躍していた人たちがいまだに現役で出ずっぱりで、往時と変わらないことを言っていたり。まあ、論壇誌にも休刊が相次いで数も減って、何が論壇なのか、そもそもあるのかという話もありますが。
――結論的には、論壇でリフレ派はヘゲモニーを握れなかった。
栗原 リフレ派は別にイデオロギー集団ではないので、政策提言をして、受け入れられて、日本の経済が良くなればそれで目的は果たされるわけです。ですので、論壇でヘゲモニーを握ろうとかそういう意志はそもそもないと思うんですよね。
――経済から政治を見ようという声がなぜ通らないのか。
栗原 通らないことはないんじゃないですか。「Voice」や「中央公論」といった媒体には出ていますよね。マルクス経済学でリフレ派の松尾匡さんなんかも、リベラル知識人や野党にずっと無視されていましたが、最近は岩波の「世界」や朝日新聞に登場したり、プレゼンスが上がってきている印象です。
ただ、僕は結局、文化系というか、人文や文学側の人間なので、経済学への無理解に起因すると思われる、人文系、文学系の言説のレベルの低さが気になるわけです。僕は文芸時評みたいなこともやっているので文芸誌を読まなければいけないのですが、まあ見事に反安倍的な言説しかない。反体制でも別にいいんですけど、議論の質が非常に低い。安倍批判小説みたいなのもたまにあるんですが、これも出来がひどいのが多い。
――文芸誌で反安倍というと、いとうせいこうさんとか、平野啓一郎さんとか?
栗原 政治的な発言をする人はほぼ漏れなく反安倍じゃないですかね。平野氏もツイッターでトンチンカンな安倍批判をしては炎上していますが、平野氏は文壇の反安倍言説としてはまだましなほうで、島田雅彦氏なんか目も当てられない。
――島田さんは浅田彰さんと対談集とか出してましたね。昔から同じことを言っている?
栗原 いや、もうほとんど180度ちがうんじゃないかというくらいちがいますね。
――そうなんですか。
栗原 最近の動向をご存じないかもしれないですけど、ツイッターで政権批判をするたびに大炎上して大変なんですよ、島田氏。安倍批判を書くたびに隙(すき)だらけで、何か裏の意図があるのかと最初は勘ぐっていたんですがそれにしてはひねりもなくて、毎度のように集中砲火を浴びて大炎上して。先日の衆院選のときも「自民、公明に投票しようとしている皆様はどうぞ御棄権ください」とツイートして大炎上していました。
――やっぱり反安倍ですね。
栗原 文壇にはほんとに反安倍な人しかいないですね。そうでない人は黙っているんだと思うんですが。
(つづく)*毎週月曜日更新
次回以降予告
12月18日 栗原裕一郎さんの「平成の論壇:ニューアカの呪縛」(3)
12月25日 小室哲哉さんの「平成のpop music: 渦中からの証言」(1)
撮影:髙橋勝視 (毎日新聞出版)