週刊「1億人の平成史」


第21回

さやわかさんの「平成のネットとゲーム:思ったようにはならなかった」(2)

―― 日本ゲームの栄光と、クールジャパンの失敗 ――

さやわか

昭和49(1974)年、札幌市生まれ。評論家、まんが原作者。ポップカルチャーを中心に幅広く評論。著書に『僕たちのゲーム史』『文学としてのドラゴンクエスト』『一〇年代文化論』『僕たちとアイドルの時代』『キャラの思考法』『文学の読み方』など。


<承前>

90年代日本のゲーム

――(平成史編集室・志摩和生)私は昭和のゲーマーで、1970年代の中学生の頃からゲームセンターに通ってました。当時はピンボールの時代ですね。大学受験の頃、インベーダーゲームで初めてテレビゲームに触れます。あれからもう40年ですよ。平成に入ってからも、ゲームの世界ではいろいろな革新があって、いろいろな感動があった。まず、1990年代の、プレイステーションとサターンの最初の競争のあたりから話しましょうか。

さ 平成の初めの頃というのは、日本のゲームが世界にとどろいた黄金期、その最後の輝きと言っていいくらいの時代だったと思うんですよ。

 任天堂の「ファミコン」が出たのは昭和でしたが、僕はパソコンを持っていたせいもあって、当初はパソコンゲーム派から「あんなの、おもちゃですよね」と見られているのを肌で感じていました。

 ところが平成に入って、90(平成2)年に「スーパーファミコン」が出て、これは結構なことができるね、となった。92(平成4)年には「ストリートファイターⅡ」という、ゲームセンターで爆発的人気だった格闘ゲームが、スーパーファミコンに移植されたんです。ゲームセンター版と開発者が同じ人で、かなり完璧な形で移植された。家庭用ゲーム機でアーケードと同じようなものができるとは思われていなかったので、これはすごい、と。それでスーパーファミコンが爆発的に売れ始めたんですよ。

 そのあと、「セガサターン」と「プレイステーション」が94(平成6)年に出るんですけど、サターンのキラーソフトになったのは「バーチャファイター」でした。バーチャファイターもゲームセンターで爆発的な人気があったソフトで、それが登場から1年くらいで家庭で遊べるようになるというので、ゲームセンターからすれば「やめてください」みたいな感じで業界誌なんかでも問題にされるほどだった。実際、ゲームセンターはどんどん衰退していってしまうんですけど、それと入れ替わるようにして家庭用ゲーム機の時代はすごく輝いていきましたよね。

 そして、97(平成9)年に、スクウェアが「ファイナルファンタジーⅦ」をプレイステーションで出すことになる。この頃は「映画のようなゲームを目指すんだ」というのが合言葉のようなところがあって、このゲームもそういうものでした。音楽もCDと変わらない音質ですばらしいし、3Dの立体の映像で、ぐりんぐりんカメラが動くんだぞ、と。確かにこれはすごい、いままでのゲームと全然ちがうぞ、というので、そのあたりからゲームが「大人の娯楽」みたいに思われるようになっていくんですね。

 プレイステーションをつくった久夛良木(健)さんという人は、当時こういうことを言っていました。シンセサイザーが登場してから、ポピュラー音楽の歴史が新しい段階に入った。同じような意味で、このプレイステーションという機材によって、アーティストたちが新しいエンターテインメントを作るのだ、と。いかにも音楽産業をやっているソニーらしい発想なんですよ。

 実際、当時出たゲームの中には、従来のゲームの価値観にしばられないものが多かった。「パラッパラッパー」みたいな音楽ゲームも珍しかったし、「アーク ザ ラッド」というRPGは、ロンドンまでいってロイヤル・フィルかなんかの演奏を使っていた。本当のオーケストラの音がゲームで聞けるんです。そういう音楽文化に近い側面もあった。

 もちろん、映像面でも、これまでよりちゃちくない、「映画っぽさ」を出していました。「バイオハザード」の開始10分くらいに、ゾンビが振り返る有名なシーンがあるんですけど、いまからすれば動画を再生しているだけで何のひねりもなく思えるんですが、当時は、すごい、こんなのいままでのゲームで見たことなかった、くらいに言われました。

 そういう革新性があって、90年代の日本のゲームがとても輝いていたことは確かです。でもそれは、90年代の後半までなんですよね……。 

――当時、私はサラリーマンにはなっていたけど、当時の感覚で、ゲーム機はそんなに安いもんではなかった。5万円くらいですよね。だから、プレステとサターンの両方は買えない。私は、どっちを買うか悩みに悩んで、サターンを買った(笑)。

さ ああ(笑)。サターンの方が少し先行していましたからね。

――それに、サターンのほうがかっこいいイメージがあったんですよ。

さ 「Dの食卓」とか、当時のかっこいいゲームは、プレステに移植されるのはサターンより後でしたね。

――そうそう!(笑) 飯野(賢治)さんね。

さ 飯野さん、かっこよかったじゃないですか。

――私は2006年に、取材にかこつけて会いましたよ。亡くなる7年前ですが。私にとっては憧れの人だったから会っておきたかった。

さ ゲームのクリエーターがアーティストっぽくてカッコいいというのが、当時はあったんですよ。海外からもすごく評価されるし。

 でも、サターンのあのかっこいい感じというのは、まさにその時代のもので、日本では根付かない何かだったとは思うんですね。

 というのも、サターンの目指していたのって「ソニック」とかの、かっこいい路線ですよね。サブカルチャーのとんがった、いちばんエッジな部分としてのゲームをセガさんは考えていた。

 でも、ソニーが考えたのはぜんぜんそうじゃなくって、いままでゲームと思ってなかったものをゲームにしようっていうような発想なんですね。

――それで、ファイナルファンタジーみたいなものになっていくわけですね。

さ そうですね。ドラマのようなゲームっていう。ムービーが動くだけジャン、と今だったら思うんですけど。

――私はサターン・スタートだったからか、ああいうものに、いまだに敵意を感じる(笑)。

世界と違う道

さ 実際、そうやって「映画のようなゲーム」と言っちゃったせいもあって、このあと日本のゲームは隘路(あいろ)に入っていくんです。

――どういうことですか?

さ 日本のゲームって、結局、「キャラクター」が中にいて、それを見るもの、なわけですよね。映画のようなゲームというのは。

 ところが、海外のゲームは、90年代のあたまから、「自分がこれを体験するのだ」という体験性のほうにますます向かっていった。実はセガは、80年代からそれをやっていたんですよ。ゲームセンターの大型筐体(きょうたい)を使った「ハングオン」のようなレースゲームとか。セガは、どちらかというと世界市場に近いゲームを作っていた。一時期、アメリカでは任天堂よりもセガのほうが売り上げが好調だったというのも理解できます。

 しかし日本で根付いたゲームということになると、テレビという箱のなかで物語が描かれるような作品でした。さっき言ったような、自分が体験するものとしてのゲームではないんです。せいぜい、中の登場人物に感情移入しながら操作する、人形遊びくらいの感じですかね。日本人にとってのゲームは、「キャラクターを使った物語を楽しむもの」というほうへ、どんどん向いていったわけですよ。ファイナルファンタジーⅦもそうだったわけですよね。

 しかし、世界的な潮流は、いわゆる一人称視点のゲーム、一人称で銃をばんばん撃って血が噴き出るようなやつが台頭していくんです。日本人の多くは当時、ああいうのを「野蛮だなあ」くらいに思ってたんですけれども。

――いまの話はよくわかります。私も結局90年代以降、日本のゲームになじめなくなって、PCの洋ゲー派になるんです。私が平成のゲームでいちばん感動したのは「グランド・セフト・オート」、グラセフですね。

さ はいはい。

――映画の中に入る、というのは人間の夢だったと思いますが、グラセフはそれを実現させた。本当に腰が抜けるほどびっくりしました。そのあとアメリカに初めて行ったんですけど、アメリカ人は本当にグラセフの中の通行人みたいに歩いている(笑)。これは現実なのかゲームの中なのか、とちょっと混乱させられる、そういう魔法のようなゲームでした。

さ その路線で特に革新的なのが2001(平成13)年の「グランド・セフト・オートⅢ」でしたね。まさに現実かと錯覚させるような広い世界と、その中で何をやってもいい自由さが、現在「オープンワールドもの」と呼ばれるジャンルのさきがけとなって、爆発的に売れたんです。

 非常に悲しい話としては、グラセフⅢの前、98、9年に、セガも「シェンムー」というオープンワールド的なゲームをつくっていた。80年代から「ハングオン」のようなレースゲームを手がけた、天才ゲーム作家と呼ばれた鈴木裕さんの作品です。リアルにつくられた横須賀の街並みを歩き回って、お店のシャッターが閉店時間になるとがらがらと閉まったりする……。

――まさにグラセフの世界ですね。

さ そうなんですよ。だから、すごい、と思った人もいたんですけど、当時の日本ではあまり受け入れられなかったんです。開発に莫大(ばくだい)なお金がかかったわりに、物語と全く関係のない登場人物まで詳細に作り込まれていたり、蛍光灯のヒモを引っ張って部屋の電気を消せるような地味なこだわりが、意味がわからない、と。そんな、現実にできることを再現して、何が楽しいんですか、と。

 おっしゃるとおりで、海外のゲーム市場を考えると、明らかにそっちのほうに可能性はあったんですが。結果論ですけどね。

 日本人は、やっぱり、つんつんした髪形の少年が剣で派手に切る、というのが、好きだったんですよね。ゲームは、アニメと近しい文化だと認識されていたし、日本では実際にそういうものとして進化した。それで、日本のゲームは、平成が始まってからの10年間くらいして、だんだん世界とは歩調が合わなくなっていきます。最終的には、日本国内でも売り上げが鈍化していく。

 だから、そのあとプレイステーション2が出たときに、ヒットしたゲームは実はあんまり多くない。むしろこの当時に普及し始めていたDVD再生機能が搭載されていたことで、安く買えるDVDプレーヤーとして人気になってしまいました。

 いっぽう、任天堂はというと、なんとなく子供向けのゲームばかり作っているように思われてますが、例えば「007ゴールデンアイ」とか、一人称的なゲームを果敢にやろうとしていたんですよ。これからは3Dで一人称のゲームが増えていく、という認識はしっかり持っていて、それを日本の消費者にどう根付かせようかというのが任天堂の考え方だったはずです。「スターフォックス」とか、あるいは「スーパーマリオ64」だって、そういう課題に取り組んだゲームなんですよね。

 ところが、日本人にはどうしてもなじめないところがあって、なかなかそっちには行けなかった。従来の、キャラを重視した、アニメのようなゲームを3Dのグラフィックに置き換えたようなものが国内では人気になって、海外ゲームとの差がますます鮮明になってしまった。

 だから、2016(平成28)年くらいからVR(仮想現実)ってはやっていますけれども、あれがはやる意味が日本ではわからないはずなんです。日本人にとっては、最近になって急にVRがはやり始めた感じもする。でも、欧米の文脈でいうと、すごくよくわかるんですよね。

――一人称で「没入」する世界ですね。

さ そうです。自分の目の前が一人称視点のグラフィックで表示されるということを突き詰めると、自然な流れで最終的にはVRだよね、と考えることができる。いまやゲーム市場は、プレイステーションなどですら、日本より先に海外で発売されるくらいですから、圧倒的に海外市場のほうが重視されているわけです。だから、海外の文脈に沿ってプレイステーションVRとかが登場する。

――90年代の日本ゲームは輝いていたんだけど、だんだん世界と乖離(かいり)していって、いまは世界から遅れている?

さ そうですね、遅れてしまったんですが、でも2017年はよかったとは思うんですけどね。

「ニンテンドースイッチ」もよかった。ニンテンドースイッチが出てきた文脈を、話を戻して言うと――。

 まず任天堂は、89年、それこそ平成元年から売っていたゲームボーイの売れ行きが94、5年になって下向いてきます。普通ならそこで販売終了になるところですが、そのとき、「ポケットモンスター」が発売されたわけですよ。それで爆発的に売り上げが回復するんですね。最終的にゲームボーイって、いろいろ手を替え品を替え続いて、ソフトは2003年くらいまで出てたはずです。

 で、これからは携帯ゲームの時代だ、と任天堂は絶対に判断したはずです。とくにポケモンは画期的なゲームで、「交換」つまりユーザー同士のコミュニケーションができたり、「集める」コレクションができたり、そのほか「育成する」など、現在のソーシャルゲームにまでつながる要素が、全部そろっているんです。

 それもあって、90年代後半以降は従来とは違った手軽なゲームが増えていくんですよね。特に何かを育てる、育成要素を持ったゲームはこの時期からはっきりと根付いていきました。

――たまごっちみたいな。

さ そう。その後は任天堂の経営をV字回復させたニンテンドーDSでも犬を育てるゲームが発売されたりして。ああいうソフトや「脳トレ」みたいなものは、海外にも受け入れられたんです。

 Wiiなんかも、そうでしたよね。棒みたいなコントローラーを持たせて、テニスをやらせる。これも昔からある、いかにも「ゲームらしいゲーム」とは違うものだった。まあこういうカジュアルなゲームの路線はあんまり長続きはしなかったんですけれども。

 現在につながるゲームの流れは、世界的には、やっぱりマイクロソフトのXboxなんかがつくったところがあります。日本では全然売れていないんですけど。

 プレイステーション3や4も、そういう流れにかなり追随しているところがあって、非常によく売れています。プレイステーション4の世界累計実売台数は4000万台を突破して、普及の速度はソニーのゲーム機の中でも最速だそうです。実はいまは、据え置き型のゲーム機がよく売れているわけです。しかし一人称視点のゲームやXboxを中心に栄えたこの潮流は、日本になじみがなかったせいで、まだあまり知られていない。日本では、最近持っている人も増えたかもね、くらいでしょうかね。ファミコンやスーパーファミコンの時代のようにはいきません。

――私もまだ買っていない。まあVRで買おうかな、くらい。

さ でも、いま日本で売れているニンテンドースイッチも、こういう流れを重視したゲーム機なんですよ。さっきも言ったように、任天堂は海外の動向をちゃんと意識している。だからあれは、テレビにもつながるし、携帯機にもなるゲームなんですよ。日本人はゲームボーイ以来、スマホゲームにいたるまでどうしても携帯機が好きなんだけど、任天堂としては、なんとかテレビにつなげる据え置き機を盛り上げたいんですよね。

――プレステ4も高いからなあ。VRと一緒で10万円くらいか……結局、平成のあいだ、ゲーム機は私にとってずっと高かった。ずっと貧乏な自分が情けない(笑)。

さ ゲーム機だけでなく、ソフトとしては、2016年の暮れには「ファイナルファンタジー」が出て、2017(平成29)年は「ドラクエ」が出たし、「マリオ」も「ゼルダ」もありましたね。

 単純にビッグタイトルが出ただけでなくて、これらのソフトはどれも3Dが中心のゲームへかじを切り始めているんです。「ゼルダ」もオープンワールドになっていた。そして日本人でも海外でも評価されている。日本人がようやく3Dのゲームになじむようになってきたのはうれしいことですよね。90年代のあたまからいろんな形でなんとかして海外と日本のずれを修正しようとしていたのが、2017年ぐらいから、ついに準備が整ったというか、整わざるを得なくなったというか。

「クールジャパン」はなぜ行き詰まったか

――ところで、平成時代は、日本のゲームやアニメ、漫画が世界中で人気ということで、「クールジャパン」とか言われました。でも、あれもしりすぼみでは。ドラゴンボール、セーラームーン、ポケットモンスターのような日本アニメの世界的大ヒットも、しばらく出ていませんね。

さ それはおっしゃるとおりなんですよ。

 クールジャパンというのは、2002(平成14)年に書かれた海外論文が初出なんです。当時、日本のカルチャーが注目されたのは、インターネットを通じてなんですよね。ブロードバンドのようなものができて、アニメの、簡単にいうと海賊版を海外の人は見てたんですね。「ファンサブ」という、英語字幕を勝手につけて。それで、日本のアニメって面白いね、というマニア層みたいなのが少しずつ増えていった、というのが前段としてあるわけです。いま言った論文はそういう背景で書かれたものだった。

 ところが、単純にアニメが売り物になると思ってしまった政府は、トップダウン的にネットでの配信会社を作って「ここで日本の映像を売りまーす」みたいなことをやった。つまり、その時に盛り上がっていたアニメの客がどういう層なのかを、というか客ですらなかったということを、あまり考えてなかったんですね。

 あるいは、作り手を支援しようということもあまりなかった。韓国なんかは2000年代以降、国策的にK-popとか韓流ドラマを支援して世界的に韓流ブームを巻き起こしていった。韓国の文化振興予算は日本と同等ですが、国家予算比では日本よりはるかに多いです。K-popなんかはオリンピックのアスリートと同じで、国が援助して才能の育成もやっています。

 日本では、そういう試みはうまくいってないんですよね。これは、日本の縦割り行政にすごく関係があって、クールジャパンの仕切りって、経済産業省なんですよ。経産省は、商売のことを考えるのは当然なので、それは仕方がない。で、一方で、作品とかクリエーターのことは誰がやってんのとなると、文化庁がやるんですよね。文化庁はアートのことを考えている。なので、クリエーターを支持したいとは思ってるけど、やはり、ポップカルチャーをその対象として筆頭にはしにくい。

 結局、日本では個々のクリエーターや制作会社が経済活動として、創作を行って、うまくいった作品には政府がカネを出すという後手に回ったやり方にならざるを得ない。それは昨今、貧困とも言われているクリエーターたちにとってうれしくないだけでなく、日本が自国のコンテンツの輸出で主導権を握れないということにもつながっています。

 たとえば「ジャパンエキスポ」ってあるじゃないですか。

――フランスのパリとかで開かれているやつですね。

 あれも実は日本人の主催で始めたイベントではないんですよね。現地の人が、日本の文化が好きだからというのでやっている。だから、主導権は向こうにあるんです。その結果、こちらはコンテンツを売る立場なのに日本側の持ち出しでお金を払って参加しているようなところがある。外貨を稼ぐっていう意味では、あんまり成功とは言えないですよね。もちろん顔見せにはなるんだけども、クールジャパン政策としては、さほど成功していないとぼくは思うんですよ。

――毎日新聞の近くに小学館がありますけど、あそこも、ドラえもんとポケモンの次が出ないと苦しいんではないか、給料高いし、と勝手に心配してあげているんですが(笑)。

さ とくに最近は、古い価値観とか、古いコンテンツをしっかりやろうというほうに、世の中が向いてきてしまっています。近年は、アニメでも何十年も前の作品のリメーク作が非常に増えてきました。お金を払うのは30代、40代だろう、というのでそうなっているんですよね。そして実際それでひとまずうまくいってしまっている。それこそ小学館でいうと、漫画雑誌でも「コロコロアニキ」がものすごく売れているらしいんですよね。それじゃあ、今はよくてもこの先どうなるか。

 しかし漫画文化といっても、今の若い人は、たとえばLINEマンガとか、マンガワンとか、ピッコマみたいな、携帯アプリで読むやつを読んでいる。ジャンプ+なんかになると、これもアプリで読まれていると思うんですが、更新日の朝になったらツイッターのトレンドワードに作品名が出るくらいにはなっています。しかし出版社は紙文化を守らなきゃいけないし、書店も意識しないといけない。単純にいうと、そこにデバイドが発生しちゃっている。アプリで読む人はアプリで読んで、紙の文化の人たちは「全然売れてないよね」みたいなことになっている。

――携帯で読むような漫画は有料なんですか?

 いろんなやり方があります。毎週1話ずつ無料で公開されて、過去の話とかを見るんだったら、お金が30円とか100円とかかかりますよ、という場合もあるし。お金を払えば、先がどんどん読めます、というのもあります。お金を払うとすると一定時間無料、というのもありますね。

――小銭で「チャリン、チャリン」の世界。

 いまのところ小銭のレベルで動いているように見えるので、まだ出版社さんがはっきりそっちにかじを切るには至っていない。ただ、それでも最近は明らかにネットから盛り上がる作品が増えているし、2016年は講談社さんが黒字だったんですけど、それは完全にデジタルで取ったんですね。それははっきりと社長が株主総会かなんかで言っていた。だからそっちを収益の柱にすることをある程度考えて、たとえば営業や広報で積極的に部署を構えるくらいのことをしないと、結果的にネット対応はおざなりか、作者や編集者などの個人的な努力によるところが大きくなってしまっている。それでは作り手への負荷が大きくなって、結果的に出版文化を崩壊させることになると思うんですけどね。

(この項、終わり)*毎週月曜日更新

<次回予告>
次回は寺脇研さんの「日韓関係が幸福だったころ(仮題)」です。お楽しみに!

撮影:髙橋勝視 (毎日新聞出版)