篠山紀信(しのやま・きしん)
1940(昭和15)年、東京生まれ。1959(昭和34)年、日本大学芸術学部写真学科に入学。在学中の1961(昭和36)年、広告制作会社ライトパブリシティに入社。第1回日本広告写真家協会展でAPA賞を受賞。同大卒業後、広告写真を撮るかたわら、「カメラ毎日」「アサヒカメラ」「話の特集」などにヌードを中心としたアート作品を発表。1968(昭和43)年、フリーに。日本写真批評家協会新人賞、日本写真協会年度賞、芸術選奨文部大臣新人賞、講談社出版文化賞、毎日芸術賞を次々に受賞。「激写」シリーズをはじめ数多くの雑誌の表紙やグラビアを席巻する一方、『Death Valley』、『晴れた日』、ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館にて激賞された『家』、『作家の仕事場』、『Balthus』『三島由紀夫の家』など作品性の高い写真集を数多く発表。また、三島由紀夫、ジョン・レノン、美空ひばり、坂東玉三郎、山口百恵、宮沢りえなど常に同時代を代表する人物を撮り続ける。「シノラマ」など新しい表現方法と新技術で写真界をリードする。2000(平成12)年以降、デジタルカメラで撮影した写真と映像の新しい表現「digi+KISHIN」を展開し、写真表現に新風を送り込んでいる。日本写真界を代表する巨匠。
(承前)
――(平成史編集室・木村健一)篠山さんがプロの写真家になられたのは、どういった経緯だったのですか?
篠山 あえて平成と比較するとね、僕が「カメラ毎日」で写真を撮り出した60年代末は、カメラ雑誌が元気だったんです。最初は、「アサヒカメラ」くらいしかなかったんだけど、毎日新聞がライバルの朝日に対抗して、『カメラ毎日』を創刊して、若くて生きのいいカメラマンをどんどん起用してアバンギャルドな写真をたくさん掲載してくれたんです。当時は他にも「アルスグラフ」や「日本カメラ」など10誌以上のカメラ雑誌が競合して活況を呈していたんですよ。僕もその恩恵にあずかって、撮影の依頼がひっきりなしに舞い込んで、いい時代だったわけ(笑)。
考えてみるとね、写真は、すべてドイツのものだったんです。カメラの性能もいいし、フィルムの感度もいい。35ミリならライカ、二眼レフならローライ・フレックス。最上のカメラは、みなドイツ製のものなんです。日本人は器用だから、それを全部パクっちゃったわけです(笑)。
ブローニーの二眼レフならリコー・フレックスとか、ドイツのカメラをお手本に安くていいカメラを売り出していたんですよ。ニコン、キヤノン、ペンタックス、オリンパス、ミノルタといったカメラメーカーが群雄割拠して、隆盛を極めるわけです。つまり写真業界、カメラ業界全体が活性化していたんですよ。
実は子どもの頃、僕は写真なんてあまり趣味じゃなかったし、カメラマンになるつもりなんて毛頭なかった。新宿にあるお寺の次男坊でしたから。ところが、大学に入る頃、カメラの一大ブームが巻き起こって、仕事にするなら「こりゃいいや!」と思ったわけ(笑)。
――そうだったんですか。さすが篠山さんは、その頃から「時代を読む」嗅覚が違いますね。
篠山 それは僕だけではなく、特に60年代の若者たちは、新しく面白い、変なことをどんどんやろう、という意欲と闘志に満ちあふれていたんです。今よりずっと貧しかったけど。新宿の街中には、アメリカ文化の象徴のモダンジャズが流れ、僕たち若者は熱狂しました。芝居でいえば、「紅テント」の唐十郎、「天井桟敷」の寺山修司らアングラ演劇の旗手たちが全く新しい若者文化をけん引し、しのぎを削っていました。
政治の季節といわれた「60年安保闘争」を、僕は友達に誘われて撮ったこともあります。ただ、僕は「水俣病」を追うような社会派のカメラマンになろうとは思わなかった。
――当時ですと、ベトナム戦争の惨状を撮り、戦地に散った沢田教一(報道写真家・ピュリツァー賞受賞)のようになろう、とは思われなかったのですか?
篠山 もちろん、「命懸けで写真、撮っているな」と沢田さんの写真は見てはいました。でも、自分も戦場に行って、報道写真を撮ろうとまでは思わなかった。僕は、写真で飯を食っていこうと思っていたから、それには写真技術が身につく広告写真がいいだろうと思ったのです。
――それで日大芸術学部在学中に、細谷巌、田中一光、和田誠、浅葉克己さんら錚々(そうそう)たるクリエーターを輩出する広告制作会社ライトパブリシティに入社されるのですね。
篠山 そういうデザイナーたちが、また物すごいいい絵コンテを描くんです。それで、「この絵の通り、撮れ!」と言われるわけ。物すごいいい絵コンテだから、僕は「この絵を広告に出せばいいのに」と思ったくらい(笑)。
ただ、大学在学中から広告写真を撮っていた僕は正直、コマーシャルの世界に飽きていた。確かに広告写真は、技術も身について、お金も稼げるけど、「冷蔵庫をいつまで撮っていても、つまんねえなあ」と思っていたんです。当然、コマーシャルの世界は、クライアントが一番権力を握っているわけです。広告写真は「金儲(もう)けのための写真」だから。
そんなことを逡巡(しゅんじゅん)していた時に、「カメラ毎日」や「アサヒカメラ」から「お前の写真を載せてやるよ。自由に撮っていい」と言われるわけです。カメラ雑誌に掲載される写真は、あくまで商品広告が目的のコマーシャルの世界と違って、写真家の名前が大きく載るわけです。しかも自分の作品を載せてもらえるから、「これはカッコいいな」と思ったわけ。
それで僕は、コマーシャル写真からアート系の写真家に転向するわけだけど、だんだん「それもつまんねえな」と思うわけです。今でもそうですが、「アート系」と呼ばれて展覧会をやれば、「数万人の方が来場されて大成功でした」と言われますが、大多数の大衆は結局、見ていない。そこに不満を覚えるわけです。
その時、雑誌ジャーナリズムの時代が到来したわけです。70年代以降、「週刊新潮」、「週刊文春」、「週刊現代」、「週刊ポスト」などの週刊誌ジャーナリズムが全盛期を迎えるわけです。それ以前は新聞社にしか写真部がなかったけれど、今度は出版社系の週刊誌ジャーナリズム、グラフジャーナリズムが台頭してくる。つまり、週刊誌ジャーナリズムがカメラマンも育てるわけですよ。
写真というのは、印刷メディアに載せて何百万人に流布させることができるわけです。例えば、「少年マガジン」の表紙なら一週間に何百万人の読者の目に留まるわけです。これからはそうゆうことをやった方が面白いと思うわけです。それで、僕は大メディアと結託するわけです(笑)。「週刊明星」、「少年マガジン」、「GORO」、「週刊プレイボーイ」などの若者雑誌の表紙やグラビアを撮り始めたのです。僕の代名詞でもある「激写」は、1975(昭和50)年から「GORO」で連載(第1回モデルは山口百恵)を開始しました。
コマーシャルカメラマンから始まって、次に作品主体のアート系写真家になり、そのまた次に大衆メディアと結託して芸能カメラマンになるという珍しい人なんですよ、アタシは(笑)。
――時代は、高度成長期ですものね。
篠山 そう! 国も高度成長でイケイケどんどん、写真や出版のような文化的なジャンルもとにかく活性化してくるわけです。ちょうどその時代と僕はぴったりと符合するわけです。日本の写真が世界で今、評価されているのは60年代、70年代、80年代に出てきた写真家たちの作品ばかりですよ。今見ても世界に通用する、クオリティーの高い写真がたくさんあるんです。
それはなぜかというと、デジタルなんてなかったから。みんな一生懸命、フィルムで苦労して撮って、ヨーロッパやアメリカ文化からは独立した、日本独自の表現を写真で生んだんです。とにかく自由で新しいことをすればいいという時代だから、その波に乗るわけです。何でも面白い変なことができたわけです。ですから、あの時代の写真表現は今より物すごくエネルギッシュだったわけです。
――そういう意味でも、篠山さんは60年代末に「カメラ毎日」に発表された作品性の高い『Death Valley』から70年代初頭にリオのカーニバルの熱狂を大衆の目線で捉えられた写真集『オレレ・オララ』へ転換されるのは象徴的ですね。
篠山 そう。『オレレ・オララ』は、僕自身の転向と時代の転換が重なり合った瞬間です。
――篠山さんは70年代以降、ずっと若者雑誌や写真集でアイドルの変遷をお撮りになられて、例えばAKB48の位置付けなどは、どう評価されていますか?
篠山 いわゆるアイドルが誕生するのは、僕が芸能カメラマンに転向した70年代からなんです。僕はそのアイドルたちを若者雑誌で次から次に撮りまくるわけです。70年代は山口百恵、桜田淳子、森昌子。男性では郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎。80年代は松田聖子、中森明菜、小泉今日子。男性では田原俊彦、近藤真彦、野村義男。90年代に入ると宮沢りえ、SPEED、広末涼子。男性では少年隊、SMAP、嵐。00年代以降は圧倒的にAKB48、乃木坂46、欅坂46と続きますよね。
昔はアイドルといえば、1人か多くても3、4人でしたが、AKB48以降は、みな「群衆」だよね(笑)。まさに、「群衆」アイドル。あれは、秋元康さんのすごい発明ですよ。写真がデジタルに大転換したことと同じくらい大きな変革、秋元さん自身の革命ですよ。よく見ると、彼女たち一人ひとりの役割も違う。海外にも地方にも進出しているしね。最近でいえば、欅坂46なんてすごいですよ。「サイレントマジョリティー」なんて、なかなか歌詞も踊りも過激でいいですよ。
――篠山さんは、芸能スター写真の一方で、文壇の肖像写真もお撮りになられていますね。
1986(昭和61)年には、野上弥生子、井上靖、松本清張ら昭和の文士60人を撮影された『作家の仕事場』を出版され、1996(平成8)年には、昭和・平成の文士135人を生年月日順に収録された新版となる『定本 作家の仕事場』を新潮社から刊行されました。
特に興味を覚えましたのは、毎日新聞社から1997(平成9)年に出版された村上龍さんの対談集『RYU’S倶楽部』のなかで、篠山さんはゲスト対談され、「どうしても新版の『定本 作家の仕事場』では、最後に吉本ばななの後に、柳美里を入れておきたかった」と述べられているのが印象に残りました。
篠山 文壇っていう意味では、あの本が最後だから、柳美里でトドメを刺そうと思ったわけです。柳美里は最後の文士ですよ。文壇バーもあの後、衰退の一途でしょ。
――僕は当時、『家族シネマ』で柳さんが芥川賞を受賞された直後のパーティーの末席で、壇上の篠山さんが柳さんご本人以上に、お父さまと親しくお話しされているのを拝見して、さすが篠山さんはテクニックが違うなと思いました。
篠山 ハハハハハ。お父さんの写真も撮ったからね。
――『定本 作家の仕事場』の最後の一枚は、執筆中の柳さんの背後にカーテンが風に揺れ、お父さまが少女時代の柳さんに買い与えたという世界児童文学全集が写っています。対談では、村上龍さんも、「柳さんだから不自然ではない。素晴らしい」とおっしゃっていました。
篠山 彼女が芥川賞を受賞する前に、泉鏡花賞を受賞した小説『フルハウス』のなかに描かれている横浜の家で撮影したんです。
――作家を撮影する際、篠山さんは入り込み方が他の写真家とはレベルが違うんですよね。写真嫌いで有名な天才画家のBalthusをスクープ撮影された際も、まず日本人の奥様と信頼関係を切り結ばれる。そこが篠山さんの写真力のすごさですね。
――篠山さんは、1995(平成7)年に「芸術新潮」三島由紀夫没後25年特集で、1970(昭和45)年に生前の三島由紀夫の「男の死」を撮影された秘話を語られていますね。撮影されたのは、篠山さん29歳、三島由紀夫45歳の時ですよね。今、いくら才能のあるカメラマンでも、自決前の大作家・三島から指名を受ける20代の写真家などいないと思います。いかに篠山さんが早熟の「写真の天才」であったかの証しですね。天才が天才を指名したわけですから。
篠山 それはね、僕をも含めて、時代自身が若く元気で、活性化していたとしか思えない。
当時は、写真雑誌以外にもう一つ「話の特集」という若い表現者、クリエーターたちをボンボン起用する雑誌があったんです。その「話の特集」のアートディレクターが和田誠さんで、横尾忠則さんなんかの作品を載せていたんです。そこで最初に、三島さんと横尾さんが知り合うわけです。
それで、二人の写真を撮れるいい奴はいないか、という話になって「若くて生きのいい篠山ってのがいるから」と横尾さんが推薦してくれて、三島さんも「それじゃ、撮ろう!」と乗ってくれたんです。三島さんには若い才能を受け入れる度量があったんです。
三島さんには、すでに細江英公さん(写真家)が撮られた『薔薇刑』という名作がありましたから、本当は細江さんに撮影を依頼すればいいんでしょうけど、まあ、細江さんはどちらかというと芸術派の写真家ですから、三島さんが撮られたいような写真にはならない。「俺の写真はこう撮るんだ」という作品のモデルに三島さんもなるわけです。その意味では、三島さんも自由に自分が撮りたい写真が撮れる、僕の方が使い勝手がよかったのだと思う(笑)。
「三島さん、どう撮りたいんですか? 男の死。それいいですね! それで行きましょう!」と仲良くなって、どんどん撮っていったんです。
――篠山さんが「芸術新潮」三島由紀夫没後25年特集号で「三島さんの思い出」の秘話を語られているなかで、ひじょうに興味深かったのは、三島がフィクションの世界で自分が何かを演じる時は必ず篠山さんを指名されたというのと、篠山さんはフィクションとして三島の「男の死」を撮っていたのに三島事件が起きてしまったことで、実はドキュメンタリーになった。そうなると写真の意味が全く変わる、と語られていることです。
篠山 そうだよ。話が違うよ、三島さん。死を覚悟した三島さんは巧妙に隠していたんでしょうけど、何か騙(だま)された感じがして、僕はその後、「男の死」を封印したんです。
――三島はある意味、希代の詐欺師ですね。撮影当時、自決を覚悟しているような雰囲気は全くなかったのでしょうか?
篠山 全くなかったね。会えばいつもフィクションとしての「男の死」ばかり話されていました。
「篠山君ね、血糊(ちのり)はね、マックスファクターのNo3がいいから、浅草の店で買って来て」とか三島さんは、そんな話ばかりされていました。
もし、三島さんから自決することをその時に聞いていれば、僕は全く違う見方で、もっと真剣に三島さんの「男の死」を撮ったと思う。全く違う撮り方で、全く違う写真になっていたはずだ。あるいは、死を覚悟された三島さんから「男の死」を世に出せ、と託されていれば、僕はすぐに出版していたと思う。
――篠山さんが最後に三島由紀夫の「男の死」を撮られたのはいつ頃ですか?
篠山 三島さんが市ヶ谷に突っ込む二、三週間前ですよ。1970(昭和45)年の11月初旬です。
――まさに自決直前ですね。
篠山 三島さんの「男の死」を撮ったことは、僕の写真家人生を決定的にした。あれは、運命だったのかも知れない。
――三島由紀夫「男の死」から四半世紀後の1995(平成7)年に、篠山さんは『三島由紀夫の家』を出版されますね。三島邸を撮影されるのにはそれだけの時間を要されたのですね。
篠山 これはね、三島さんの奥さんからの要望なんです。「篠山さんに撮っていただいて」と。奥さんは25年間、三島さんのお宅をそのまんまにされていたんです。万年筆や原稿をどの位置にどういう形で置かれていたかを知っていたのは奥さんだけなんです。
――瑤子夫人ですね。
篠山 そう。この『三島由紀夫の家』という写真集は、すべて奥さんが在りし日の三島邸を完璧に再現されたんです。僕が三島さんの家を撮影して、入稿作業を済ませて、印刷所に原稿が渡ったその時、奥さんは本が出来上がる前に亡くなられるのです。つまり、三島さんの奥さんも死を覚悟されて僕に三島邸を撮影させているのです。
――すごい夫婦ですね。
篠山 すごい一家だよ、ほんとに。知らないのは僕だけでさ。
――三島夫妻が最後の写真を、篠山さんに二度託されたわけですね。
篠山 『三島由紀夫の家』は奥さんの意思ですから、出版されましたが、最後に僕を選んだ、ということには何か意味があったのかも知れない。
今思うのは、僕がたまたま写真っていう表現に出会って写真家の道を選んだことと、時代が活性化してゆくなかで、たまたま写真という表現を通してさまざまな人々に出会っていったことは幸運だったと思います。僕は紙メディアに生きた最後の写真家だから、もう写真の時代は終焉(しゅうえん)に向かっていると思う。三島さんの「男の死」や3カ月後に銃弾に倒れるジョン・レノンを撮ったような決定的な写真に巡り合う、そうした時代はもう二度と来ないかも知れない。
(つづく)*毎週月曜日更新
<次回予告>
次回は、篠山紀信さんが語る「平成:写真の大転換」(3)―― 格納容器とランドセル ――
撮影:髙橋勝視(毎日新聞出版)