篠山紀信(しのやま・きしん)
1940(昭和15)年、東京生まれ。1959(昭和34)年、日本大学芸術学部写真学科に入学。在学中の1961(昭和36)年、広告制作会社ライトパブリシティに入社。第1回日本広告写真家協会展でAPA賞を受賞。同大卒業後、広告写真を撮るかたわら、「カメラ毎日」「アサヒカメラ」「話の特集」などにヌードを中心としたアート作品を発表。1968(昭和43)年、フリーに。日本写真批評家協会新人賞、日本写真協会年度賞、芸術選奨文部大臣新人賞、講談社出版文化賞、毎日芸術賞を次々に受賞。「激写」シリーズをはじめ数多くの雑誌の表紙やグラビアを席巻する一方、『Death Valley』、『晴れた日』、ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館にて激賞された『家』、『作家の仕事場』、『Balthus』『三島由紀夫の家』など作品性の高い写真集を数多く発表。また、三島由紀夫、ジョン・レノン、美空ひばり、坂東玉三郎、山口百恵、宮沢りえなど常に同時代を代表する人物を撮り続ける。「シノラマ」など新しい表現方法と新技術で写真界をリードする。2000(平成12)年以降、デジタルカメラで撮影した写真と映像の新しい表現「digi+KISHIN」を展開し、写真表現に新風を送り込んでいる。日本写真界を代表する巨匠。
(承前)
――(平成史編集室・木村健一)篠山さんは「週刊文春」(2018年3月1日号)グラビアに掲載された「紀信が撮った『3・11後』」(『すごい廃炉』日経BP社刊より転載)で、東京電力福島第一原発のサイトの中に入られてスクープ撮影されたことには、写真家人生の集大成のお気持ちがあったのですか?
篠山 これはね、やはり7年前の3・11の影響なんですよ。皆さんそうだったでしょうけど、ここ(東京・六本木)もすごい揺れましたよ。事務所の前にある東京ミッドタウンのビルもエレベーターが停止して、中にいた人々がどんどん外にあふれ出し、ミッドタウンの公園を埋め尽くしました。
テレビに目を移すと、仙台平野の沿岸部が津波にのみ込まれる異様な光景が上空のヘリコプターから繰り返し映し出されている。「これは大変なことが起こったな」と思いました。
僕は普段から「写真は時代の映し鏡だ。その時代が生んだ面白い人、モノ、事に果敢に挑んでゆき、一番いいタイミングで撮るのがいい写真家だ」と言っているわけですから、この震災を無いことには決してできない。急いでカメラを担いで被災地に向かわれた写真家はたくさんいます。と同時に思ったのは、では僕が被災地に赴いていったい何ができるのか、僕が何か写真を撮ることに社会的にどんな意味があるのか、被災地を撮影した写真をどういう形で発表すればよいのか、いったいそれが何の役に立つのか、といった自省の念に駆られたのです。
正直に告白すれば、震災当初、被災地に向かうことがなぜか怖く、おっくうに感じていました。そうしてダラダラと過ごして2カ月がたちました。
僕は、震災前年の2010(平成22)年から土木・建築の専門誌「日経コンストラクション」で「現場紀信」という連載を続けていました。その「日経コンストラクション」の編集者から「篠山さん、被災地の現場を撮りませんか」と依頼がありました。「篠山さんが興味をもったものだけ撮ればいいじゃないですか。もし、何も撮れなかったらそれはそれで帰ってくればいいじゃないですか。見ないというのはまずいですよ」と強く背中を押されました。それで僕は、震災から60日後に宮城県の気仙沼市と女川町に向かいました。
震災から2カ月後でもその傷痕は深く、大地震と大津波は自然を破壊して全く異様な姿を現していました。初めて目にする悲惨な光景にシャッターだけは押しましたが、何も写っていない気がしました。しかし、次に被災地を訪れた際、古い電柱が横倒しになっているその上に布団がある。僕は何か現代美術の作品を見ているような錯覚を覚えました。つまり、人間が営んできた暮らしと作り上げてきた自然を巨大な地震のエネルギーによって破壊し、ありえない光景が目の前にある。ある意味、全く新しい異形な自然を作り出している。不思議なことに僕はその異形さが新鮮に見えてきました。そこから僕は写真を撮り出しました。以後、僕は4度被災地に向かい、撮影した写真を2011(平成23)年の秋に『ATOKATA』と題した写真集にまとめて出版しました。
その後、同じ「日経コンストラクション」の編集者から、「ところで篠山さんは、原発は行かれましたか?」と尋ねられました。「いや、まだ行っていない」と答えると、「それじゃあの震災、3・11を見たことにはならないじゃないですか」と問われました。震災当時、僕はそれを聞かれるのが、最もつらく怖くて嫌だった。冷静に考えても、フリーの写真家が水素爆発した東京電力福島第一原子力発電所の中に入って撮影できることは規制されて不可能でした。また、すでに他のカメラマンが原発周辺の写真は発表していました。
「3・11」から6年近くがたった2016(平成28)年12月と2017(平成29)年1月に、僕は意を決して福島第一原発へ向かいました。
20キロ圏内に立ち入るには、まず身分証明書を提示し、福島第一原発に立ち入るには白い防護服を着て、立ち入り許可書を提示後、線量を測ります。原発から出る時も同様です。入った時と出た時の線量の差がそこでわかるのです。
福島第一原発の中に足を踏み入れて、僕がまず思ったことは、あの3・11の原発事故から「おお! 変わった」という景色がほとんどなかったことです。あの日から原発の中では6000人以上の作業員の方が7年間、日々命懸けで働いていらっしゃる。もちろん水素爆発した建屋に放射線の飛散を防ぐためのカバーを取り付けたり、凍土壁を造り汚染水が外に流れないようにしていますが、いまだに汚染水の貯蔵タンクは日々増加しています。
つまり、東電としては、「原発事故によって住み慣れた家と暮らしを奪われた何万人もの福島の人々を一日も早く元通りの生活ができるよう6000人から7000人の作業員が日々、廃炉に向かって努力している」と知らしめたいのです。それが東電側の大義名分です。でも、実際は「廃炉」がいつになるのか、いつ住民は戻れるのかは、結局まだわからない。はっきりとは言えない状況が続いているのです。
僕は、「ドラマチックに福島第一原発は変わった」「原発は安全です」「いつ帰っても大丈夫です」といった考えに沿う写真も、あるいは「原発反対」を前面に出した写真を撮るつもりもありません。僕は原発の敷地内で自分が目にした、自分が感じたありのままの光景を写真に収めました。
僕が最も興味を覚えたのは、原発サイト周辺のいまだに立ち入りが規制されている「帰還困難区域」でした。僕はそこに行きたいな、そこを写真に撮りたいなと直感しました。「双葉町を撮らせてくれませんか」と東電とは管轄の異なる双葉町役場の方にお願いしました。7年前から時間が止まっているのは、被災地のなかでも福島第一原発が立地する双葉町、大熊町などの「帰還困難区域」です。このエリアは、防波堤ができインフラの整備も進み変化の兆しが見える他の被災地域とは違い、全くの手つかずの状態なのです。草木が伸び、家々は屋根から崩れ落ちたままで、野生の動物たちだけが住居に侵入して生息している。
双葉町内の小学校へ行くと、7年前の卒業式の寄せ書きをした子どもたちの筆跡が黒板にそのまま残っていました。また、3・11の際、「校庭にすぐ逃げなさい」と先生に言われ避難した子どもたちが床に置いたままにしたランドセルが、数多く散らばって残されていました。
特に撮影当日の双葉町は雲ひとつない、ほんとうに気持ちのいい、さわやかな居心地のいい晴れやかな日でした。そんな日に人は誰もいられない。いつ戻れるか誰もわからない。それらの光景を目の当たりにして、僕は悲しい気持ちになりました。
この地を去らなければならなかった人々の不条理が、痛いほど胸に突き刺さりました。
――篠山さんにとって、格納容器の前に立つこととランドセルが散らばった双葉町の小学校卒業式の寄せ書きは同価値ですか。
篠山 全く一緒です。同価値です。危険だといわれる格納容器の前もランドセルが散らばったままの小学校の教室も、放射線は見えないのです。
僕は写真家として、大震災と原発事故という自分が関わった時代に起きた悲劇のほんの一点だけれども、震災と人々の悲しみの記憶として福島第一原発と双葉町を写真に収めることができたことは意味がある、と思っています。
――作家の柳美里さんも3年ほど前に、神奈川県の鎌倉から福島県の南相馬に移住されて小説以外にも地元のラジオ番組(南相馬ひばりFM)で数多くの被災者の声を聞き取るなど、さまざまな活動をされていますが、篠山さんはそうしたことをどう思われますか?
篠山 その場所に住まなくてはわからない、何も見えてこないということはあると思います。才能のある人間が被災地でできることをしてあげるのは、僕は当たり前のことだと思います。彼女はいずれそれを作品化するでしょうけど、被災地では作家に限らず、音楽家や美術家たちも、さまざまな活動をしています。物を作る人間にそうした欲求が出てくるのは当然です。
――柳さんが南相馬に移住を決意された背景には、お母様が福島県の南会津にある只見町にゆかりがおありになって、田子倉ダムという国内最大級のダム建設のために村がダムの底に沈んだのだそうです。少女時代に柳さんはダムに沈む以前の懐かしい風景を物語るお母様に連れられて田子倉ダムを訪れた時の記憶と、原発事故により居住が制限された20キロ圏内が重なり南相馬に移住を決意されたそうです。
篠山 なるほど、そうですか。
――実は、僕は福島の出身でして高校時代の同窓には詩人の和合亮一君がおります。彼は3年ほど前から福島から声をあげるという「未来の祀(まつ)り ふくしま」という夏の文化イベントを地元の小学生から識者まで集めて全国に発信しています。彼は昼間は高校の教員をしており、震災時には、教え子を津波で亡くしておりますから、今も彼は特別な使命感をもって「詩の礫(つぶて)」を投げ続けているのだと思います。
篠山 そう考えると、やっぱり狭い国土で、原発なんてやっちゃいけないね。危険極まりない。
――福島原発の誘致、用地買収には当時、衆議院議長などを務めたコクド・西武グループの創業者・堤康次郎が絡んでいます。旧陸軍の練習飛行場跡地を国から払い下げを受け、タダ同然の3万円で手に入れた堤は、結局3億円で東京電力に売り、用地買収が完了したのは1964(昭和39)年11月27日です。その3日後に東電は、福島原発の建設計画を発表しています。
篠山 ほんとうの悲しみは、そこに住んでいる人でないとわからないですね。
(つづく)*毎週月曜日更新
<次回予告>
次回は、篠山紀信さんが語る「平成:写真の大転換」(4)――答えは時代に聞いてくれ――
撮影:髙橋勝視(毎日新聞出版)