週刊「1億人の平成史」


第19回

上念司さんの「アベさんがアベノミクスにたどり着くまで」

上念司(じょうねん・つかさ)

1969(昭和44)年生まれ。経済評論家。勝間和代氏との共同事務所「株式会社 監査と分析」の代表取締役。中央大学法学部法律学科卒、日本長期信用銀行、臨海セミナーを経て2007(平成19)年に「監査と分析」を設立。「リフレ派」の立場から活動する。著書に『デフレと円高の何が「悪」か』『「日本ダメ論」のウソ』『高学歴社員が組織を滅ぼす』『経済で読み解く明治維新』『財務省と大新聞が隠す本当は世界一の日本経済』『タダより高いものはない』など。


「リフレ派」になるまで

――(平成史編集室・志摩和生)12月の栗原裕一郎さんのインタビュー(栗原裕一郎さんの「平成の論壇:ニューアカの呪縛」)には大きな反響がありました。その反応の一つに、上念司さんからの反応もあって、栗原さんと私が「上念さんは右翼っぽい」と話していることに対して、「右翼じゃないぞ」と文句のメールをいただきました(笑)。その節は失礼しました。で、上念さんとやり取りするうちに、「アベノミクス」の成立過程に関して、栗原さんの話を補完する話を、上念さんから聞けるのではないかと思うようになりました。栗原さんは「なぜ安倍(晋三)さんが急にマクロ経済に目覚めたのか、というのは謎」(インタビュー第2回)と発言しています。民主党がリフレ政策を拒否した後、なぜ安倍さんがそれを採用し、どのようにそれが「アベノミクス」になったのか。今日は、アベノミクスの評価についてはいったん置いて、平成史の重要な局面としてのアベノミクスの成立過程、栗原さんの言う「謎」を、上念さんに説明してもらいたくて、うかがいました。

上念 それができるかどうかわからないですけど、第1次安倍内閣のときの安倍首相は、今みたいに経済政策には精通していなかったと思う。少なくともリフレ政策は理解していなかったし、日銀が2006(平成18)年に量的緩和を解除していますけど、あれがどれくらい大きな意味を持つかも、あんまり理解していなかったと思うんですよね。

――第1次安倍内閣が2006年から2007(平成19)年までですね。まず、そもそも上念さんがどのようにして「リフレ派」になったのかをうかがいましょうか。

上念 これは長い歴史があります。2000年ごろ、当時私は臨海セミナーという学習塾で取締役事業本部長という重責を担わせてもらっていました。まだ30くらいだったんですが。

 そのくらいのときに、日本はなんでこんなに景気が悪いんだ、おれも経営者のはしくれだし、ちょっと勉強してみよう、と思って、本屋で本を探して勉強し始めたんですよ。

 最初に手に取ったのがリチャード・A・ヴェルナーの『円の支配者』(2001年)という半分リフレ、半分陰謀本でした。これはなかなか説得力がありましたね。次に手に取ったのが浅井隆の「国家破産」本でしたが、日本はずっとデフレで、ある日突然ハイパーインフレになる、とか、はっきり言って矛盾だらけで、これじゃダメだなと思いました。

 その次に勧められて読んだのが「キムタケ」こと木村剛の緊縮論です。これも全然納得できない。

 おかしいな、と思っているとき、高田馬場の本屋で野口旭先生の『経済論戦』(2003年)という本をたまたま立ち読みしたら、あ、これすごく面白い、と思ってそのまま買って読んだ。野口先生はリフレ派の経済学者で、なるほどこういうメカニズムなのか、とわかったんです。

 ヴェルナーは半分リフレみたいな話で、お金を刷ればたちどころに景気がよくなると書いているんですけれど、後半が陰謀論なんですよ。日本には旧満州の革新派官僚の遺伝子があって、日銀総裁は満州に関連した人しかなれない、とか、わざと円高にして円を基軸通貨にしようとしている、とか。

――80、90年代のジャパンバッシング本の流れかな?

上念 そうね、ちょっとそういう本で。ただ、その本で貨幣のバランスというのをある程度理解していたので、浅井隆の本もキムタケの本もおかしいと思ったんですね。

 で、野口旭先生の本は、ヴェルナーの話の穴を埋めて余りあるアカデミックな話をちゃんと書いてあって、キムタケがなんで間違っているのかとか、リチャード・クーの財政政策だけで景気対策をすることに対する批判とかもちゃんとしてあった。これ面白いな、と思って。

 その野口先生の本に、たびたび岩田規久男先生の『デフレの経済学』(2001年)が引用されていた。これは読まないとダメだ、と、『デフレの経済学』を買って、ノートを取りながら2カ月かけて読んだんですよ。そこでぼくはリフレ政策を理解するようになった。

 野口先生の本で参考文献に挙げてある本はほとんど全部読んだんですよ。どんな本を読んだのかは、私の処女作の『デフレと円高の何が「悪」か』(2010年)の参考文献表に、60冊か70冊くらい挙げています。

 それで、読む本もなくなってきた2004(平成16)年くらいに、野口先生が、新宿の朝日カルチャーセンターでリフレ派講師陣による講座を開くと聞き、これは面白そうだと申し込んだんです。全4回か5回で、講師は田中秀臣先生、若田部昌澄先生、中村宗悦先生、高橋洋一先生、あともう一人、猪瀬事務所の女性が講師で来て。これだけの講師陣で、生徒は3、4人しかいない(笑)。私以外は、元高校教師とか、元公務員みたいな人で。質問時間の30分、ほとんど私一人で質問していた(笑)。先生たちとは名刺交換して。ここで田中先生たちと初めて会ったんですよ。

民主党政権下での活動

 それからいろいろあって、2008(平成20)年にリーマン・ショックが起こり、2009(平成21)年に民主党政権が誕生する。自民党アホだから、金融政策わかってなかったけど、民主党になったら変えてくれるかもしれない、って思っていたんですよ。そう思っていたところに、勝間和代に、「マーケット・アイ・ミーティング」に出席してくれ、という話が飛び込んだ。2009年の終わりかな。

――2009年の11月5日ですね。栗原さんとのインタビューでも話しましたが、これは私も取材に行ったので覚えています。マーケット・アイ・ミーティングというのは、当時の菅直人副総理兼国家戦略担当相が、エコノミストの意見を聞く会でした。菅さんが首相になる半年ほど前です。

上念 そこで何を言おうか、って勝間と話しているとき、現時点ではリフレのポジションを取ったほうが目立つし、政策的にも正しいんだ、って言ったんです。勝間ともすごい議論になりました。彼女も完全にはわかってなかったんですよ。お金ってどこから生まれるんだ、とか。国債を出している量までしか通貨発行しちゃいけないんじゃないの、とか、金本位制みたいなことを言う。一生懸命説明して説得したらさすがに頭がいいのですぐに理解しました。それで、プレゼン資料を作ったんです。

 そのとき、民主党政権が誕生して、数カ月しかたっていなかった。そのマーケット・アイ・ミーティングの直前までは、彼女はどっちかというとキムタケに近いような清算主義者的な意見をもっていたんですけど、そのときのブレストで彼女が変わった。たしかにその通りだ、これで行ってみよう、と。

――本番のマーケット・アイ・ミーティングのとき、勝間さんの後ろに上念さんがいて、口添えしていたことを覚えていますよ。

上念 あそこでバーンとプレゼンしたら、もう、バカ当たりして。勝間和代、リフレなの、って、みんなびっくりしていた。ビジネス本の著者として有名だけど、どっちかというとシバキ系のことばかり言っていたのが、この人リフレわかってんじゃん、アタマいいじゃん、みたいな反応で。

 その直後に、宮崎哲弥先生が、朝日新聞本紙の「メディア衆論」で、勝間と、朝日の論説委員の3人で経済座談会をするという話があり、私も一緒にくっついて行きました。そこで宮崎先生と話したら、お前よくわかってるな、と言われて。携帯の番号を交換しました。そのあと、宮崎先生と田中秀臣先生が電話で話したとき、勝間和代が急にリフレ派になったのはどういうことだ、と田中先生が言って、宮崎先生が、勝間和代には上念というブレーンがいる、と話してくれたらしいです。上念? あ、野口先生の講座に来てたアイツだ、と(笑)。それで、田中先生と若田部先生がうちの事務所に来てくれて、「これから連携してやっていきましょう」という話になった。これが、「デフレ脱却国民会議」が始まるきっかけです。その直後には、宮崎さんと勝間と、飯田泰之さんとのリフレに関する共著(『日本経済復活一番かんたんな方法』2010年)の企画も決まりました。

――2009年のマーケット・アイ・ミーティングの話に戻って。菅直人副総理を相手にしたプレゼンでしたけど、そのときの菅さんの反応をどう感じました?

上念 菅さんは、奥さんにアタマ上がんない人ですよね(笑)。私が思ったのは、こわい奥さんに説教されて、ハイハイって言うダンナみたいなノリになっていた(笑)。最後は、じゃあ、お金刷るように言ってみようかな、みたいな感じ。緊縮はいかんよね、金融緩和しないといかんよね、金融引き締めはいかんよね、みたいな感じにはなっていたんですよ。

 だから、やってくれるかな、と思ったら、そのあとすぐ財務省から、3日間徹底的にレクが入ったらしく、気が付いたら、増税すれば景気がよくなる、みたいなわけわからないことを翌年には言い出すようになっちゃった。

――当時の毎日新聞にはこうあります。「『具体的にどうすればいいのか』と聞く菅担当相に対して、勝間さんは『通貨発行量をふやすのがいちばん簡単』『要は中央銀行のお金を大量に刷って、それを借金として政府がばらまく』と回答。菅担当相が『簡単に言えば、国債を50兆なり70兆なり出して、日銀に買い取らせるということか』と聞くと、勝間さんは『そういうことです』と答え、『国債の発行が悪いことのように国民は教育されているが、将来への投資と考えるべき』と主張した」と。菅さんは、「日銀に言えばやってくれるなら明日にでも言いたい」と言いつつ、日銀に対して自信がなさそうでした。

上念 だから、「あなたがやらせなきゃダメですよ」、と勝間がアドバイスしたんですよ。

――あと、「カネがないのではなく知恵がない」とか言っていた。

上念 そういう精神論じゃダメだ、て言下に否定されていましたけどね、勝間に。

――その場には、古川元久さん(当時、国家戦略室長)もいましたね。

上念 そうそう、勝間は当時、古川元久さんとか、福山哲郎さんとか、蓮舫さんとかと仲がよかったんで、それもあって呼ばれたのかもしれないですね。

 でも結局、菅さんはぜんぜんそういう方向に行かず、翌年4月の参院選で、増税すると景気がよくなるっていう小野(善康)さんの珍妙な理論を掲げて民主党は大惨敗した。

 それくらいの時期から、デフレ脱却国民会議の活動が始まります。第1回のシンポジウムが2010(平成22)年8月31日ですね。それに向けた、こんなメールを書いています。田中先生あてです。

 「9月の民主党代表選と、国会の召集に向けて、政局はかなり混乱しておりますが、このタイミングを利用して、超党派でデフレ脱却に向けた勉強会を立ち上げようと画策しております。具体的には勝間さんを筆頭にした著名人を呼びかけ人にして、デフレ脱却国民会議という任意団体を立ち上げ、国会議員に呼びかけて、9月に勉強会をおこなうというものです。最終的な目標は日銀法改正としつつ、政党の枠を超えて、脱デフレの輪を広げていくために、ネットワーキングの場をつくるというのが狙いです。時節柄、民主党のデフレ議連が直接、みんなの党に声をかけるといろいろな臆測を呼んでしまうので、勝間に呼ばれて勉強会に行ったら、偶然そこに、みんなの党とか自民党の山本幸三さんとかがそろっていた、という状況をつくりたいです。昨今、田原総一朗さん、宮崎哲弥さんとも相談し、両名とも発起人に名を連ねていただくことをご了承いただきました。宮崎哲弥さんは日曜日に討論会の収録があり、金子洋一さん、林芳正さん、高橋洋一さんが一堂に会するので、その場でもお呼びかけくださるそうです。私も明日の番組収録で、森永卓郎先生にお会いするのでさっそくお誘いしようと思います。田中先生もぜひ入ってください。」

――政治家でいうと、いま名前が出た金子洋一さんとかですね、リフレに理解があったのは。

上念 そうですね。民主党だと、金子洋一さん、宮崎岳志さん、松原仁さんですね。この3人が中心です。全員、弁論部つながりなんですけどね。

――へえ、そうなんですか。

上念 松原さんは早稲田の雄弁会、金子さんは東大弁論部で、宮崎さんは私と同じ中央大学辞達学会ですね。弁論部OBが中心になってやったんです。

――それで、議員会館かなんかでやりましたよね。たしか小沢鋭仁さんも来ていた。

上念 そうです、小沢さんも理解してやってくれていました。デフレ脱却国民会議第1回シンポジウムは8月31日の午後3時から、衆議院第2議員会館の多目的ホールで実施して、パネリストは、勝間和代、松原仁、浅尾慶一郎、山本幸三、と。で、私が事務局長ということで、やっていました。

――で、民主党内でどのくらいの効果があったんですか?

上念 けっこうな人が名を連ねてくれたんですけど、結局、執行部はぜんぜん動かなかったですね。BS朝日の番組に出たときに、デフレ脱却国民会議というのをやってますから、って田原総一朗さんに言ったんですよ。どんなメンバーがいるのって聞かれて、メンバーを言ったら、全部非主流派じゃないか、だめだよそれ、って言われて。その通りになりました(笑)。

――そのときの中心メンバーも民主党の後継政党に残っていない……。

上念 そうですね。

――結局、上念さんたちリフレ派の活動は、民主党政権下では実を結ばなかった。

上念 民主党政権の3年半のあいだ、ずっと彼らを説得しつづけたんですけど、われわれが言うのと逆方向のことばかりやっていた、という印象ですね。だから民主党政権には非常に失望しています。

――浜田宏一さんとの関係はいつできたんですか?

上念 それも2009年11月のマーケット・アイ・ミーティングのあとです。あのあと、リフレ派の重鎮から勝間に会いたいというオファーが出版社経由で来るようになった。まず岩田規久男先生ですね。いま日銀副総裁になられていますけど。岩田先生が、たまたまニュージーランドから日本に帰ってくるので、ちょっと勝間さんと会いたいんだけれど、と東洋経済を通じて言って来て、グランドパレスでお食事を一緒にさせていただいた。それ以降、デフレ脱却国民会議でパネリストにも出てくれるようになったんですね。

 浜田宏一先生も、われわれの活躍を聞いて、若田部先生を通じて、たまたま日本に帰ってくるから会いたい、と。浜田先生、若田部先生、勝間で『伝説の教授に学べ!』という本も作りました。後ろのほうに、しれっと私も2ページほど書いてるんですけど。実はこれ影のプロデューサーは私なんです。若田部先生とやりとりして、どうせやるんだったら、勝間和代は慶応の商学部なんで、経済学っていっても一般教養レベルだから、もう一回マクロ経済学の基礎を浜田先生から習う、っていう体(てい)で、特別講座をやりましょう、と。生徒1人だとあれだから、おれも一緒に出ますから、と。そしたら浜田先生から、理論的なとこはいいけど、経済学説史の部分は若田部くんがやってくれ、ということで、若田部先生をゲスト講師で、浜田先生をメインの講師ということで、この本が生まれました。これが2010年ですね。

 で、この本の冒頭に、当時の日銀総裁、白川(方明)君へ、っていう手紙を浜田先生が書いた。そして、この本を日銀に届けるわけですよ。そしたら送り返してきやがったの(笑)。

――そりゃ失礼ですね。なんでですか。

上念 要は、贈答品はもらえないので、的な感じで。でも、5000円以下だったら納めてもいいらしいんで、明らかに話を聞きたくなかったんですよ。

――なるほど。いずれにしても、マーケット・アイ・ミーティングから急展開してますね。

上念 あれで勝間和代がリフレ派の論客と見られるようになって、それにくっついてた私も一緒に有名になった(笑)、リフレ派として。

「アベノミクス」発表前後

――で、そろそろ安倍晋三さんに登場してほしいんですが……。

上念 安倍さんが入ってきたのは、だいぶ後なんですよ。

 デフレ脱却国民会議の第1回シンポジウムが2010年8月31日で、第2回が2011年の1月20日。そのあと、デフレ脱却国民会議懇親会っていうのを、2011(平成23)年2月22日、赤坂のジースターっていうレンタルスペースみたいなことでやりました。ケータリングを用意して、政治家のみなさんとうちの呼びかけ人のみなさんが来る、と。メンバー的に言うと、松原仁さん、宮崎岳志さん、金子洋一さんの事務局、プラス小沢鋭仁さん、自民党の中川秀直さん、田中先生、若田部先生、みたいな感じで、あと公明党の遠山清彦さんと高木陽介さんとかも来たような気がするんだけど。

 ここで反省会があって、そうだ、各政党ではなくて、衆議院・参議院の会派を回ろう、ということになった。会派を回って、デフレ脱却に向けた日銀法改正をアピールしたあと、記者会見しよう、と。で、何日にやろうか、ということになって、なんと3月11日にそれをやったんです。2011年3月11日!

――へえ。

上念 忘れもしない、運命の日ですよ。私は朝6時に国会に行って、有識者の人はパスがないと入れないんで、自民党と民主党の事務所から秘書さんに言ってパス借りて、先生こっちです、とか言ってパス渡して、朝8時くらいから、院を回ったんですよ。全部回ったんですよ。自民党からみんなの党から、当時あった政党を、参議院行って、衆議院回って、それで、朝10時半に記者会見をやって。それが11時くらいに終わったのかな。で、そのとき私はたまたま『「日本ダメ論」のウソ』っていう4作目くらいの本を出していて、みんなの党の松田公太さんの事務所に献本に行った。私の後輩をインターンに入れてくれたりとかお世話になっていたので。そこで松田さんとちょっと話して、朝6時からやってるからさすがに眠くなって、いったん家に帰った。自宅に帰って、ああもうなんか行きたくねえなあ、もう疲れたなあ、とか言って、うちの奥さんから、あなた仕事行かなくていいの、とか言われて、どうしようかなあ、とか言ってると、いきなりどーん!って揺れたんですよ。それでわれわれのニュースはぶっ飛んじゃった。お昼のニュースではちょっと流れたんですけど、そのあとは全部、東日本大震災のニュースになって。ここですべてリセットです。

 この日のイベントは、デフレ脱却国民会議3・11陳情っていうんですけど、どこを回ったか、いちおう言っておきますと、朝8時から公明党の西田実仁広報局長のところに行き、9時からみんなの党の浅尾慶一郎政調会長のところに行って、9時半から民主党の城島光力政調会長代理のところに行って、9時50分から自民党の鴨下一郎政調会長代理のところに行く、と。で、10時半以降は、国民新党の亀井亜紀子政調会長、社民党の阿部知子政審会長、共産党の笠井亮政策委員会副責任者。最後はたちあがれ日本の園田博之さんのところに行っています。

――自民党は誰でしたっけ。

上念 鴨下さん。

――まだ安倍さんには届いていない?

上念 そうですね。まだ安倍さんには行ってないですね。このときには。

 このあとの4月、デフレ脱却国民会議は、復興増税に反対する緊急アピールを発表しました。4月27日ですね。増税ではなく、震災国債の日銀買い受けを求める三つの理由、ということで。増税では間に合わない。増税では金額が足りない。増税では日本全体にダメージがある、と。そういう理由を掲げて、記者会見も行いました。

 このあとしばらく活動が低迷して、9月29日に緊急シンポジウムを開こうとしたんですよ。ところが準備が間に合わなくて、延期になりました。

 で、翌年、2012(平成24)年の3月30日に、超党派懇親会というのを開きました。ここに出席される方の名前が、安倍晋三さん、中川秀直さん、山本幸三さん、宮崎岳志さん、勝間和代、小沢鋭仁さん、渡辺喜美さん、亀井亜紀子さん、遠山清彦さん、脇雅史さん、というメンバーで、ここで初めて安倍さんが来ました。

――安倍さんは誰が誘ったんですか?

上念 たぶん、中川秀直さんか、山本幸三さんだと思いますね。で、このときには、安倍さんはリフレに関してはそうとう学ばれていた。

 これの前に、国家ビジョン研究会のシンポジウムがあった。2011年11月24日ですね。うちと似たようなことやってたんですけど、そのシンポジウムに岩田規久男先生が招かれて、安倍さんもちょっとだけ来たんですよ。私は観客で見てたんですけど。このときに3人のスピーチがあって、1人目が鳩山由紀夫さん、2人目が安倍晋三さん、3人目が渡辺喜美さんだったんです。そのあと岩田先生の基調講演があって、パネルディスカッションがあった。そこのスピーチで安倍さんは、リフレ政策を十分に理解していることが分かりました。

 おそらく安倍晋三さんと仲がいい山本幸三先生が安倍さんを呼んだのかもしれないです。

――山本幸三議員とはどのような方ですか。

上念 山本議員は、もともと東大の小宮(隆太郎)ゼミ出身で、岩田先生なんかと同窓なんですね。岩田先生がちょっと先輩。浜田宏一先生も小宮先生の弟子で、小宮ゼミでチューターみたいなことをやっていたのが浜田先生だから、そこの人脈はつながるんです。山本幸三先生はそのまま大蔵省に行って、大蔵官僚になるんですけど、経済学の理論に非常に精通していて、論文もプロ並みのものが書けます。私なんかより全然上です。

――安倍さんは、その山本さんと近かったということですか。

上念 派閥とかは全然違うんですけど、山本さんが安倍さんを説得に行った、と本人は言ってますね。ご本人に聞いた方がいいと思うんですけど。

 うちの懇親会の場合、私が聞いている範囲なんですけど、安倍晋三さんを連れてくると最初に言ったのは、宮崎岳志の事務所の植木さんという秘書。元田中派の秘書会事務局長をやっていた森陽一郎という辞達学会の大先輩がいて、建設大臣をやった斉藤滋与史の秘書官だった。国会の秘書のOB会長とかもやっている大物秘書で、彼が宮崎事務所に紹介したのが植木さん。だから、田中派人脈、小沢一郎人脈みたいな人だと思います。でも、単に自民党の中川秀直事務所から「安倍さん連れて行くね」って言われて伝言しただけかもしれませんけど。安倍さんと同じ派閥ですし。

――その時点では、まだ安倍さんが総理に返り咲くとはわからないですよね。

上念 もちろん。まだ総裁選に立候補するとも言っていない時期です。

――一人の政治家として来たのか、返り咲く心積もりで来たのか。

上念 いやあ、首相に返り咲くとは思っていないでしょう。一政治家として、いろいろ出ている中の一つだったと思います。前の年の国家ビジョン研究会のシンポにも出てるし。うちも似たようなことをやってるんで、たぶん来てくれたんじゃないか。知り合いの中川秀直さんも一緒に来るし、と。そのときは、勝間がお酒を飲んでた時期だったんで、渡辺喜美さんと中川秀直さんのあいだでワイン飲んで酔っ払って、すごい大物ぶりだった(笑)。

 その時点では、安倍さんとはリフレの話も合いましたし、あのときは小沢鋭仁さんとかリフレ理論に精通した人はいっぱいいたんですけど、安倍さんの話は聞いてて遜色はなかったですね。

――リフレ政策としてのアベノミクスは、唐突な印象もあったけど、そういう蓄積があった。

上念 夫人の昭恵さんに聞いたんですが、総理を降ろされたあと、たくさん本を読んだり、座禅を組んだり、いろんな人と話をしたり、充電していた。そのなかの一つに、山本幸三さんからレクチャーを受けるというのがあったんじゃないかな、と。ご自身でも本を読んで確認してたと思いますよ、すごくよくわかってたんで。

――リフレをやるとすれば、ただの知識だけじゃなく、日銀や財務省に政治的エネルギーを使う、そうとうな覚悟が必要でしょう。

上念 そうですね。だから、まさか自民党総裁選に立候補したときに、アベノミクス三本の矢で、1本目を金融政策なんて言うなんてぼくら思っていなかったんで、すごいびっくりしましたよ。

 安倍さんは、これで行くしかない、と確証を得たんでしょうね。そのあと自民党総裁選で、あれはたしか9月くらいでしたっけ、「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」が三宅久之さんの呼びかけで発足した。それに私と勝間も名前を連ねています。政策的に一致するから、と。

――その時点でアレ?と思った。勝間さんは蓮舫さんの仕分けの手伝いとかしてたのに、なんでいきなり安倍晋三なんだ、と。

上念 それは、彼がリフレ政策をわかっているということを3月30日の会の時点で彼女も確認したので。政策的に一致する人を応援したい、と。

 このあと、デフレ脱却国民会議は、発展的解消をして、なくなっちゃいました。いまはもうないです。リフレ政策を安倍首相が採用したので、これで歴史的役割を終えた、と。

――最後に、いまの時点で言いたいことをどうぞ。安倍さんの総裁3選なるかとか、来年の消費増税はどうなるとか、アベノミクスも前途多難だと思うんですが。

上念 安倍晋三政権を倒したいと思っている人へのメッセージなんですけど、安倍さんよりもいい経済政策はできますよ。ただ、それはいま立憲民主党が言っている政策とは反対方向です。あれはむしろ弱者が困窮するような政策なので。むしろ、アベノミクスはまだ生ぬるい、金融緩和はいまの倍くらいできるし、財政政策なんてまったくやっていないから、もっと国債とか発行して教育無償化とかいろいろやりなさい、というほうが、おそらくアベノミクスにとっては脅威だと思うんです。安倍を倒すなら、それだ、と。

 なのに、そんなことやったら景気悪くなってみんな苦しむ政策ばっかり言うから、安倍一強を倒せなくて苦労していると思うんですよ。アベノミクスを超えるリフレ政策は、いわゆる左側の人で言うと、立命館大学の松尾匡先生がちゃんと細かいところまでプランを出されている。

 リベラルのなかにも、正しいことを言っている人と、精神論だけで言っている人と、いまの支持者の年齢層にばかりこびている人と、いろいろいると思うんです。原理主義みたいなこと言って気持ちいいというのが政治ではないので。国民におまんまを食わせてこその政治でしょう。その視点をしっかり考えないと。年金もらって逃げ切りだから、若いやつはどうなってもいい、みたいな、そういう偏狭な視点だと、やっぱりなかなか安倍一強を倒せないと思います。

 逆に言うと、いまの安倍政権は、ほかの人よりは、ましです。ずっとずっとましです。なので、ましである限りは、私は応援せざるを得ない。しばらく安倍さんの味方でいざるを得ないと思います。

(この項、終わり)*毎週月曜日更新

<次回以降予定>
1月29日、2月5日は、さやわかさんの「平成のネットとゲーム(仮題)」です。お楽しみに!

撮影:髙橋勝視 (毎日新聞出版)